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HLC TOUR 2017 REMINISCENCE

#08 斉藤正史/MASA(ロングトレイルハイカー)

文/写真:豊嶋秀樹
2018.08.10
HLC TOUR 2017 REMINISCENCE

#08 斉藤正史/MASA(ロングトレイルハイカー)

文/写真:豊嶋秀樹
2018.08.10

INTRODUCTION

2017年の6月から10月にかけて、山と道は現代美術のフィールドを中心に幅広い活動を行う豊嶋秀樹と共に、トークイベントとポップアップショップを組み合わせて日本中を駆け巡るツアー『HIKE / LIFE / COMMUNITY』を行いました。

北は北海道から南は鹿児島まで、毎回その土地に所縁のあるゲストスピーカーをお迎えしてお話しを伺い、地元のハイカーやお客様と交流した『HIKE / LIFE / COMMUNITY』とは、いったい何だったのか? この『HIKE / LIFE / COMMUNITY TOUR 2017 REMINISCENCE(=回想録)』で、各会場のゲストスピーカーの方々に豊嶋秀樹が収録していたインタビューを通じて振り返っていきます。

第8回目となる今回のゲストはトリプルクラウン・ハイカーであり、地元山形でロングトレイルを整備する活動を行なっている斉藤正史さん。世界を歩いたからこそ地元山形の魅力に気づいたという斉藤さんが語る、自然と文明のあるべき関係と、歩くことの意味とは?

ひと山登って山形へ

秋田でのHLCの懇親会の席で、地元のハイカーの方に近くのおすすめの山をたずねると、和賀山塊の真昼岳がいいだろうと教えてもらったので、夏目くんと僕は、次の会場である山形への 道中で真昼岳に登っていこうという話になった。午後から登って、山頂の避難小屋で泊まり、翌朝そのまま降りてくれば山形へは午後の早いうちに着くことができそうだった。

真昼岳は、和賀山塊と呼ばれる秋田と岩手の県境に連なる山々のひとつで、標高1000mほどの緑の濃い山だ。朝からどんよりとした雲が立ちこめていたが、もう少しで頂上稜線かなというあたりで、激しく雨が降り始めた。暑くてたまらなかったので、ちょうどいいやと思って、僕はレインウェアを着ずにそのままずぶ濡れになって歩いた。

雨水で沢のようになったトレイルの両側は背の高い笹で覆い尽くされていて、僕たちは雨と笹に阻まれた登山道を掻き分けて進んだ。雨がさらに激しくなると、まるで滝の中を歩いているようで、だんだん気分が盛り上がってきた。山を泳いでるような感じだった。ほどなく、真昼岳の山頂に到着した。山頂には木造の避難小屋があって、小屋の中には、小さな神社が祀られていた。

翌朝はずいぶん早く目が覚めた。小屋の外に出てみると、まだ暗い中で夏目くんがタバコを吸っていた。雲ひとつなく、ガスはすっかり飛ばされて、東の方角がうっすらとオレンジに明るくなってきていた。僕たちは、まだ肌寒い山頂で太陽が昇るのを待った。僕はご来光マニアではなかったが、黎明のこの時間の神聖な雰囲気は好きだった。次第にあたりは白々としてきて、ひと筋の強い光線が夜を突き破ると、僕たちは朝のなかにいた。

支度を整えた僕たちは、昨日とは違うルートで下山した。山を下りながら、僕と夏目くんは、いろんなトレイルランナーの走り方を真似したり、人工知能が考えた最も効率の良い走り方で走ってみたりした。余談だけど、実に笑える動画なので、ぜひ、この人工知能の走り方のシミュレーションの動画を検索して見て欲しい。ふざけながら走って下山するうちにクルマのあるところまで戻ってきて、僕たちは山形へと向かった。

山形のイベント会場は、古いビルをリノベーションした「とんがりビル」という、食堂やギャラリー、ショップ、デザイン事務所、撮影スタジオなどが入っている建物の1階のスペースだった。友人で山伏の坂本大三郎くんの「十三時」という本と雑貨の店や、今回のイベントコーディネートでお世話になったアカオニデザインの小板橋さんのデザイン事務所などもここにある。

そして、今日のゲストトークは、ロングトレイルハイカーのMASAこと斉藤正史さんにお願いしていた。斉藤さんは、おそらく日本で一番ロングトレイルを歩いているハイカーであり、おそらく日本で唯一のプロとして活動しているハイカーだ。

山形で生まれ、山形で育ったので、山形が好きなんです

斉藤さんは、2005年にアパラチアン・トレイルをスルーハイクした。「AT」と略されるアパラチアン・トレイルは、アメリカ東部をジョージア州からメイン州までの14州にまたがる約3,500kmにおよぶロングトレイルだ。数年前に公開された、ロバート・レッドフォード主演の映画「ロング・トレイル!」の舞台にもなっているので、映画で見て知っている人もいるだろう。

斉藤さんは、その後、パシフィック・クレスト・トレイル(PCT)、コンチネンタル・ディバイド・トレイル(CDT)を踏破し、アメリカの三大トレイルを踏破した者に与えられる「トリプル・クラウン」の称号を手にした。

「会社を辞めてアパラチアン・トレイルを歩きに行ったんです。それまでは、海外の旅行といえば、パッケージ旅行でしか行ったことなかったのに。実際に日本を飛び出してみると、よくあるパターンだとは思いますが、逆に日本のことに目覚めましたね、『日本ってなんて素晴らしい国なんだ』って。『ああ、自分の住んでいる山形っていい場所なんだな』ってだんだん誇りを持つようになっていきました。」

海外での暮らしを経験して、日本再発見というような心境になるというのは、学生時代をアメリカで過ごした僕にも覚えがある。海外まで行かなくても、地方から東京へ上京したり、転勤で違う土地へ行ったりしただけでも、生まれ育った地元のことを見直すようになった人も多いだろう。一度、外の世界に身を置いてみると、それまで当たり前だと思っていた自分の世界の価値観が大きく揺さぶられるものだ。

「東京で就職したんですが、父が亡くなったのを機に、長男だということもあって山形へ戻ることにしたんです。それ以来、ずっとサラリーマンを続けながら暮らしていたので、私にとって山形は、ずっと住んでいる故郷で家族のいる大切な場所です。いくら仕事とかお金があるといっても、東京に行くという選択肢はもうないですね。」

人それぞれ、いろんな理由はあるとは思うが、生まれ故郷にいて、そこが良いって思えるのはすごく幸せなことだと思う。就職や転勤などで、自分の意思とは関係ないところに行かざるを得ない人も多いだろう。それに、僕もまさにその一人だが、核家族化したニュータウンなんかに住んでいると、土地との因果が全くないところにいることになる。そういう環境と比較して、生まれ育った場所で、そこにいるぞという覚悟や引き受けている感覚がある人が、僕は羨ましく思えるときがある。

「やっぱり外の世界に行くと、自分の居場所がいかに良いかってわかりますよね。自分のいる場所はここなんだって。私の場合は、アパラチアン・トレイルを歩いたタイミングでものすごく変わったと思います。それに、人生に対する価値観も大きく変わりました。それまでは本当に仕事人間でしたから、仕事できない奴とか遅い奴は、『なんだ能力ねえな』って、心の中で思ったりしていました。効率ばっかりを求めていたのが、トレイルや自然の中に入るとそうじゃないことに気づいたんです。」

斉藤さんは、アパラチアン・トレイルの良さのひとつに、人との触れあいを上げている。ほとんど何も知らないで歩き始めた日本人を周囲のハイカー達が暖かく迎えてくれたことが大きな支えになったという。そういえば、同じくアパラチアン・トレイルを歩いたベーさんこと勝俣 隆さん(HLCツアー八ヶ岳でのゲストであり、後にこの連載にも登場していただく)も同じことを言っていたと思い出した。

写真提供:斉藤正史

歩き終えたら何をするんだ

「その時の状況によって、いろんなことを考えながら歩いているんですよね。アパラチアン・ トレイルのときは、まだ日本ではトレイルっていう言葉も一般的ではなく、海外を歩いた人の情報も全くなかったなかで、会社辞めてまで行って、自分が今まで思っていた価値観が崩れていったんですよね。自分の勝手なイメージで思っていた様々なものが、アメリカの片田舎を歩いて、いろんな人たちに出会って、それまでの価値観が次々にひっくり返されていったんです。そして、歩き始めた頃は、毎日トレイルを歩く生活に慣れるために、ただ、がんばるしかなかったのが、行程の真ん中を過ぎたあたりから、スルーハイカーと言われることに対して自信を持てるようになってきたんです。そして今度は、だんだんと終わりについて考えるようになっていくようになる。『僕は、ここを歩き終えたら何をするんだ』って」

それだけ長くただ歩いて生活することを続けた後には、ロングトレイル・ロスとでも言うような、喪失感や虚脱感が歩き終えたという達成感を上回るのではないかという不安はわかるような気がした。この状態を指してスルーハイカーの間では「スルーハイカー・シンドローム」と呼ぶそうだ。

「足が痛いとか、肩が痛いとか、今まで嫌だったことが、どんどん手放したくない感覚に襲われていくんですよ。」

斎藤さんは、当時を懐かしむような感じで話した。

「いよいよゴールが見えてくる頃になると、一緒に歩いてる仲間たちが、『いつフィニッシュする?』って言い始めるんです。『僕は、誕生日にフィニッシュする』とか、みんないろんなゴールの仕方を考えて調整していくんです。私もどういう終わり方がいいかいろいろ考えたんですけど、自分のそのままのペースで、自分が辿り着いた最後の日がゴールでいい。そういう結論に達しましたね。」

それは、人の一生の最期についての話をしているようにも聞こえた。

「ずっと2000kmも一緒に歩いてきた仲間と、『じゃあまたどこかで会おうね』って別れて、また一人での旅がはじまる。そして、最後にさっきの葛藤が残るんですよね。終わりのことは考えたくないけど、帰ったらどうしようって。実際歩き終えたときには、終わったのかどうかさえよく理解できないくらい真っ白な状態でしたね。」

写真提供:斉藤正史

文明社会と自然を行ったり来たり

「歩き終わって日本へ帰国すると、山形にトレイルを作りたいなって漠然と思うようになりました。それは、アパラチアン・トレイルのような道が日本や山形にあれば、会社辞めてわざわざアメリカにまで行かなくてもいいじゃないかって思ったからです。」

既存の登山道をつないで、日本でもロングトレイルハイキングがしてみたいと思うのは想定しうるが、トレイルそのものを作りたいというのは少しぶっ飛んだ発想のように聞こえた。

「アパラチアン・トレイルは、とても完成度の高いトレイルだと思います。サポートの体制も素晴らしいし、自然も素晴らしいけど、人臭さもあって。通常は”National Scenic Trail(アメリカが国家として整備と保全を行なっている自然歩道)”と呼ばれるトレイルは、PCT(パシフィック・クレスト・トレイル)のように、ハイシェラ・エリアのような高山があって砂漠地帯 があって、ワシントンの深い山があってという感じで、自然に特化していくところがあるんですけど、アパラチアン・トレイルに関しては、歴史の要素も入ってるんですよね。アメリカ先住民族との抗争や、南北戦争のあとを辿っていく部分がルートに入っていたり、アーミッシュの人たちの居住地を通ったり、いろんな要素があるんですよ。私は、最初に歩いたのがアパラチアン・トレイルだったから、また次のトレイルを歩こうって気になったと思うんですよね。」

それはアメリカだったということも理由のひとつだと思えた。他の国にもトレイルはたくさんあるが、ロングトレイルという文化がアメリカではじまったもので、その起源にある精神性のようなものに触れたということが大きかったのだろうと僕は想像した。

「2012年にプロのハイカーとなったことをきっかけに、山形の自然を守っていくために、トレイルを歩くだけじゃなくて作ろうと思ったんです。山形に帰ってきた時に思ったことを実際にやっていこうと。後押ししてくれた仲間の存在も大きいですね。それから僕の活動は道を歩くことと作ることになりました。」

プロのハイカーというものが存在すること自体僕は知らなかったが、斉藤さんが、プロへ転身しようと決めたきっかけは、日本を代表するバックパッカーである故・加藤則芳さんとの出会いだったという。

「加藤さんとよく『いつか、バックパックを背負って、海外のハイカーが日本のトレイルを歩いてる姿を見たいね。それが当たり前になる日が来たら良いよね』って話をしていました。加藤さんが夢見てたことを一緒に話していると、人の夢なんですけど、それが自分の夢になっちゃって。私も、海外のハイカーが日本に来て歩いて、日本のハイカーが海外に行って歩いて、トレイルで世界中が繋がっていくような、そういうカルチャーが日本にも根付けばいいなって思っています。私が生きているうちにはできないかもしれないとは思うんですけど、遠い目標というか、星空の星を眺めているような気持ちで夢見ています。」

斉藤さんは、そう言って少しはにかんだように笑った。

「最近気がついたんですけど、歩くっていうのは、人間本来の生活をしに行くようなことなのかもしれないって。『俺は、自然の中で仙人みたいな暮らしをしたい』って方たちも見かけるんですけど、私は、それともちょっと違っています。物質社会で生まれ育って、モノが溢れているなかで生きているんですけれど、本来の人間の暮らしってどうだったんだろうって考えると、 貨幣価値が一番ではなく、人間と自然が共存して生きていた時代だったのではないかと思うんです。ここまで人口が増えていろんなモノが溢れて、どんどん自然が壊れていくなかで、自然と物質社会をお互いに尊重しながら、いまからどういう形で共存していけるのかっていうことを考えます。『ここまで自然を戻さなきゃダメだ』という考え方を持ってる方もいらっしゃると思うんですけれど、どこまでさかのぼれば正解だっていうのはないと思うんです。だったら、これからどうしていこうかっていうことを考えていきたい。」

僕は頷きながら斉藤さんの話を聞いた。

「そういう問題に対して、トレイルには可能性があると思っています。トレイルに入って自然を感じてもらって、自然や環境について考えたり、動く人が少しでも出てきたら、これから子どもたちが生きていく世界は良くなっていくんじゃないかなって感じます。そうやって文明社会と自然のなかを行ったり来たりすることの間で、現代社会が忘れていることを思い出してもらう。たぶんそういう活動が、私のスタイルにも合ってますし、おそらく私が歩く意味は、そこにあるんじゃないかと思っています。」

斉藤さんの歩く旅はまだまだ続きそうだった。斉藤さんは、長い距離を歩いていると、最初は邪念ばっかりだけど、そのうちにどんどん考えること自体が少なくなっていって、そのうちに自分と向き合うようになってくると言っていた。 それは、僕が四国で出会ったご自身もお坊さんであるハイカーの方の言葉と重なった。

そのお坊さんは、お遍路を歩いているときの気持ちを僕に話してくれた。できるだけ急がずに、ひとつのお寺からお寺まで間の自分を振り返り、ちゃんと徳を積むことができているのか自問するという話だった。どこに行くのにでも急ぎ足になりがちな日々のなかで聞いた、斉藤さんやお坊さんの言葉は、僕を立ち止まらせた。

斉藤さんに今後の予定を聞くと、西オーストラリアのバルマラン・トラックというアボリジニにちなんだトレイルを歩きに行こうと思っていると教えてくれた。 僕もいつかロングトレイルを歩いてみたいなと思いながら、山形を後にした。

『LONG TRAIL』

今まで歩いたカナダ、ニュージーランド、アメリカなどのロングトレイルの話。

斉藤正史/MASA
斉藤正史/MASA

山形県上山市在住。NPO法人山形ロングトレイル理事。山形県村山地区YYボランティアセンター活動アドバイザー。ロングトレイルカルチャー普及の為、海外のトレイルを歩きレポートを行う傍ら、地元山形にロングトレイルのコースを作る活動を行う。2005年AT、2012年PCT、2013年CDT、2014-15年TeARAROA、2015年JMT、2016年IATを単年で歩き通すスルーハイクにて踏破。

http://longtrailhikermasa.blog.fc2.com/
http://trailworld.jp/hikers/hikers_saito/
https://www.columbiasports.co.jp/mag/2016/04/focusvol1.html

豊嶋秀樹

豊嶋秀樹

作品制作、空間構成、キュレーション、イベント企画などジャンル横断的な表現活動を行いつつ、現在はgm projectsのメンバーとして活動中。 山と道とは共同プロジェクトである『ハイクローグ』を制作し、九州の仲間と活動する『ハッピーハイカーズ』の発起人でもある。 ハイクのほか、テレマークスキーやクライミングにも夢中になっている。 ベジタリアンゆえ南インド料理にハマり、ミールス皿になるバナナの葉の栽培を趣味にしている。 妻と二人で福岡在住(あまりいませんが)。 『HIKE / LIFE / COMMUNITY』プロジェクトリーダー。