#1 夢のはじまり
#1 夢のはじまり
メキシコ国境からカナダ国境まで、アメリカ西海岸の山々や砂漠を越え4,265kmに渡って伸びるパシフィック・クレスト・トレイル(PCT)。「トリプルクラウン」と呼ばれるアメリカ3大トレイルのひとつであり、さらにウルトラライト・ハイキングそのものも、そこを歩くハイカーの中から生まれてきた正にULの故郷とも言えるトレイルです。
そんな「トレイルの中のトレイル」PCTを、山と道京都に今年加わった新スタッフ、伊東大輔が2022年にスルーハイクした模様をこれから全10回でお届けしていきます。
スーパーハイカーではない元営業マン、英語のコミュニケーションもちょっと不安……でもPCTへの夢と希望はめい一杯バックパックに詰め込んで歩き出したトレイルネーム”GOAT”こと伊東が、「世界最高のトレイル」で一体何を見て、何と出会い、どんな体験をするのか。どうぞお付き合いを。
北の大地に想いを馳せて
「相棒! 見えてきたぞ!」
カラカラに乾いた空気に包まれた灼熱の大地にひっそりと、しかし堂々とそびえ立つ無機質な石碑を見つけ、ぼくたちは興奮気味に目を合わせた。
「ブランドン! いよいよ始まるな。お互い最高の旅にしようぜ!」
ぼくは慣れない英語で彼と、そして、どこかフワフワと浮き足立つ自分自身の背筋を正すように、熱いハグをガッチリと交わした。「相棒」と言っても彼と出会ったのはほんの数時間前。ぼくたちが目指す「ある場所」に向かうバスの中で偶然知り合った。こんな簡単に他人同士が相棒と呼び合うなんておかしいよね? それもこの場所が持つ特別な魔力なのかもしれない。
ブランドンとぼく、そして乗り合わせた地元のお姉さん。
ここはガイドブックに載っている有名な観光地でも、知る人ぞ知るパワースポットでもない。言葉通り何の変哲もない、ただ石碑が立っているだけの場所だ。ただ、ある種の変わり者たちにとっては、とてもとても大きな意味を持つ場所である。夢にまで見たそんな光景に、これからはじまる旅に期待を膨らませたぼくは心を踊らせた。
どこか冷酷に見える大きな柵が設置されているこの場所は、アメリカとメキシコの国境地帯。そんな場所にそびえ立つこの石碑はこれまで、世界中から集まる旅人の数えきれない物語の始まりを見届けてきたに違いない。
アメリカとメキシコの国境に設けられた巨大な柵。
通称「サウザンターミナス」。
メキシコ国境からカナダ国境までを結ぶ長距離自然歩道、パシフィッククレストトレイル(以下PCT)の南端、つまりはそのスタート地点である。旅人たちはこの地から、想像もつかないほど遥か遠くの終着点に想いを馳せ、およそ半年間もの時間をかけ、山と街をつないで旅をする。
何の話だよとツッコミが飛んできそうだが、ロングトレイルと聞けばピンとくる人もいるのではないだろうか。山から街へ、街から山へ……衣食住を背負ってただひたすら自らの足で歩き続ける。そんなマニアックで一見ストイックな山旅がこの世には存在し、一部の旅人たちを魅了している。
近年、登山界隈でもよく聞くようになったウルトラライト・ハイキングは、そんなロングなトレイルを歩き切るため、先人たちが取り入れた手法のひとつである。
PCTのサウザンターミナス。
PCTは「ロングトレイル」というだけあって、総距離はなんと4,265kmにも及ぶ。
サボテンが自生する南カリフォルニアの乾燥地帯、米国本土最高峰のホイットニー山を有するシエラネバダ山脈、岩稜帯と残雪のコントラストが素晴らしいワシントンのカスケード山脈と、いろどり豊かな地形を渡り歩く。
1930年代に提言されたこのトレイルは、1968年にアメリカのナショナルシーニックトレイルとして整備されて以来、多くのアウトドア愛好家によって踏み固められた歴史あるトレイルである。
カリフォルニア、オレゴン、ワシントンと3州を通過するロングトレイル。 イラストレーション:itutuji
そんなトレイルをスルーハイク(1シーズンでトレイルの全行程を歩き切ること)するために、衣食住を無造作に詰め込んだ15Kgはゆうに超えているであろうバックパックを担ぎ込み、ぼくはここにやってきた。日本から8,000km以上も離れた辺境な場所だが、ここが旅のスタート地点。
貯金、入国ビザ、退職、パンデミック、そして自分の心。バラエティーに富んだハードルを乗り越え、ぼくの中でパンパンに膨らんでいた「PCTを歩く」という夢が現実になる時、思わず涙が溢れてしまうのではないかとも思っていた。
と言うのも、元々は2020年にこの旅を計画していたが、新型コロナウイルスのパンデミックの影響で2年間の延期を余儀なくされていた。旅をする以前に海外への渡航さえ困難であった時期が続いたので、このまま一生夢を取り上げられたままなのではないかと思う時さえあった。
「本当に旅を始められる日がやってくるのだろうか?」
そんな自分の思い描いた未来がイメージできない苦しい2年間を過ごしていたので、ぼくにとっては旅のスタート地点に立っているだけでも特別なことなのだ。
「やりたいことがあるけど、急すぎるしとりあえず〇年後くらいかな」と、何気なく行動を先延ばしにしてしまうことは誰しもあるのではないかと思うが、いまある「普通」がいきなり「普通」でなくなってしまい、未来が突然何者かに奪われることだってあるのだと痛感させられた。やりたいことがあるのなら、できるうちにやらないとね!
話が脱線してしまったが、その時のぼくはというと妙に落ち着いていたことを今でも鮮明に覚えている。落ち着いていたというより、一度は奪われた夢を現実として捉えられていなかったと表現した方が正しいのかもしれない。
それにろくに下調べもせず、自分のこれからの旅をイメージできずにこの場所に立っていたこともひとつの要因だろう。
「そんなので大丈夫なのか?」
「山旅は計画が第一だろ!」
そんなお叱りの声が聞こえてきそうなものだが、何しろ行程が長すぎて細かい計画なんて立ててられない。自ら道を切り開いていくしかないし、そうするだろうと自分を信じてあげることにした。苦難は旅のアクセント。全部計画のレールに乗ってちゃ面白くないでしょ?
ターミナスとぼくとバックパック。いよいよ夢が現実となる。
自分の気持ちを整理するようにサウザンターミナスでレンズ越しに風景を切り取っていると、いつの間にか相棒(仮)のブランドンの姿は見えなくなっていた。まぁ一緒に歩こうと約束したわけでもないので当たり前だ。旅人ってやつはどこまでも自由だな。最高じゃないか。
「よし。いっちょ行きますか。」
舞いあがるカラカラに乾いた砂埃をかぶりながら、到底見えるはずもない遥か彼方のカナダに向かって、ぼくは北へとゆっくり歩み始めた。PCTを一歩ずつ踏み込むごとに未知の旅への期待は膨らみ、それと共にこの一歩一歩が現実なのだと実感し始めた。
幾千の山を、街を、そして季節を。
まるで渡り鳥のような、ぼくの旅がいま始まった。
この道をずっと辿っていけばカナダへ行けるのだ。
灼熱地獄と心のオアシス
1日目の目的地は30kmほど先にあるレイクモレーナという湖の近くにあるキャンプ場。近くに売店が併設された大きなキャンプ場だが、PCTを歩くハイカーが格安で泊まれるサイトがあるとの情報をブランドンから得ていた。
ターミナスまでのバスの時間の都合で昼過ぎの出発となってしまったぼくは、やや急ぎ足で先を目指していた。驚くことに乾燥したこのエリアではキャンプ場までの区間に水場はないので、なんとしてでもそこに辿り着かなくてはならない。水を6L担いで歩くなんて、水の潤沢な日本の山を歩いていてもなかなか出くわすことのない状況だろう。
「それにしてもとんでもなく暑い……こりゃあかんぞ……」
酷い時は40度を越える南カリフォルニアの乾燥地帯。もちろん背の高い木なんて自生しておらず、日本のそれとは比べものにならないほどの暴力的な日差しが容赦無くぼくに襲いかかる。水を飲もうとバックパックからおもむろにペットボトルを取り出すと、太陽の光を浴び続けたそれはぬるま湯と化していた。
「コーラ……アイス……シェイク……」
これから続いていく旅の妄想やPCTのハイキングを楽しむ気持ちなどはとうの昔に頭の引き出しにしまい込み、ぼくの頭の中は己の欲望に支配されていた。
こんなサボテンが所々に。綺麗なのだが注意しないと針が足に刺さってしまう。
15kmほど歩いた頃だろうか。
ちょうどいい……いや、地を這えば太陽を遮れるような小さな岩かげを見つけたので、そこでひと休みをすることにした。外にいるだけでもつらいのになんでこんな中歩かなきゃいけないんだよ。バックパックを放り投げたぼくは倒れ込むようにその岩陰に逃げ込んだ。
「暑ぅぅ〜、コーラ……アイス……」
隙を見せれば頭に現れる願望を押し殺して、仕方なく飲みたくもないぬるま湯を口に含み、食べたくもないカラカラのミックスナッツをカラカラの喉に無理矢理に放り込んだ。
旅はまだ始まったばかり。果てしないな……
あたりが明るいので気がつかなかったが、ふと時間を確認するともう16時を過ぎているではないか。この時期の南カリフォルニアは本当に日が長い。このペースで歩くと目的地に到着するのは21時くらいになりそうだ。
「まぁ多少のナイトハイクは仕方ないか〜。……ん? 待てよ?」
ある不安がぼくの頭をよぎる。
「キャンプ場の売店って何時までだ?」
これまで頭の中のオアシスと化していた冷たいコーラ。それがこの灼熱地獄を歩き続けるモチベーションのひとつになっていたことは言うまでもないだろう。ポケットからスマホを取り出し、急いで地図アプリを開いた。
“OPEN From 7a-9p”
「ギリギリじゃないか……でもやるっきゃない!」
心に覆い被さっていた「辛い」というモヤを晴らし、夢中で、そして一心不乱に歩き始めた。人間とは面白い生き物だ。同じことをしていても、気の持ちようひとつで体の動きも頭の中もまるっきり別物になる。
なんてもっともらしいことを言ってみたが、たかがコーラに釣られているだけだ。しかし、この時のぼくにとっては「されどコーラ」なほど乾ききってしてしまっていた。
1日中、ぼくを照らし続けた太陽は山の奥へと身を隠し、次第にあたりが美しいオレンジ色に支配されていった。黄昏時と呼ばれる神秘的な時間帯が、ぼくはたまらなく好きだ。スマホを確認すると時刻は20時を少しまわったところで、残り1kmほど歩けば目的地のキャンプ場へ到着する。不純な動機の追い上げもあり、無事に時間内に到着しそうだが、地図アプリを随時確認しながら歩く最後の1kmって何でこんなに長く感じるのだろう。
夕焼けとモレナ湖のコントラストが美しい。
登山口から道路にピョコンと出たぼくは、トレッキングポールをバックパックに仕舞いこみ、小走りで売店に駆け込んだ。びっしりと商品が陳列された売店を見渡す余裕なんてなく、一目散に冷蔵庫へと吸い込まれ、コーラとビールを手に取りレジへ足早に向かった。
「いらっしゃい。君はPCTハイカーかい? 今日は暑かっただろう。」
「そうなんだよ。もうこの瞬間が待ちきれなかったよ。」
「ハハハ。そうだろうね。今日はゆっくり休んでいきなよ。」
店員のおじさまとそんな挨拶を交わしている時間も惜しいほどぼくの頭は欲望に支配されており、そしてついに待ち望んだ瞬間が訪れた。
「ぐびっ、ぐび、ぐびっ……」
まるで口の中から胃袋まで何の遮りもない真っ直ぐな管が通っているかのように、コーラが体の中に一気に流れ込んだ。飲んでいるというよりは体中で吸収しているといった表現が正しいと思うほどの勢いで、求めていた水分が体に染み渡った。それほどまでにぼくの体は枯渇していたのだろう。
人生でいちばんうまかったコーラと客のお兄さんのおすすめビール。普段お酒は飲まないのだがこの時のビールは人生でいちばんだったと断言できる。
クールダウンした後、受付で料金を支払い、キャンプ場の隅っこに追いやられたハイカーサイトへと向かった。大きなキャンピングカーを横付けし、ワイワイと焚き火を囲んでいるファミリーサイトとは異なり、静まりかえったハイカーサイトはすでに十数張のテントが張られていた。ヘッドライトで他のテントを照らしてしまわぬよう適当な幕営地を確保し、パパっとテントを設営。時間も遅いのでさっそく夕食の準備をすることにした。
歩くことに夢中で気にとめていなかったのだが、夕方あたりから少しフラフラとしていた。
ナッツくらいしか食べてなかったからエネルギー不足だろうと思ったぼくは、食料袋からインスタントラーメンを2袋取り出し、おもむろにクッカーの中に放り込んだ。ちなみにインスタントラーメンはアメリカのハイカーにも大人気の安い、うまい、早いの3拍子揃ったトレイルフードである。
しばらく火にかけるとフタがカタカタと踊り出したので、ポットリフターを使ってクッカーを持ち上げようとしたその時だった。
「カクッ……ガッシャァーーン!」
クッカーとリフターがしっかり噛み合っておらず、ぼくの大切なラーメンはカリフォルニアの大地に横取りされてしまった。トレイルでは持ち運べる食料も限られるので、本来あってはならないミスである。
「嘘だろ……今までこんなミスしたことないのに……もうイヤだ……。」
改めて調理する気力なんてどこにもなく、水でラーメンをササっと洗い流してそのまま口に放り込んだ。PCTの記念すべき初日のディナーは素っ気ない味わいの汁なしラーメンだった。
……言葉が出ない。
「あぁ…もう動きたくない。なんか吐き気もしてきたし……。」
普段はテントの中で軽いストレッチや翌日に歩くトレイルの確認をするのだが、この時はそんな余裕はなくテントの中に敷かれたマットの上にバタっと倒れ込んだ。エネルギー不足かと思っていたが、ネットで症状を調べるとどうやら軽い熱中症っぽい。
「こんなのが半年も続くの……?」
果たしてこんな過酷な毎日を耐え続けることができるのだろうか?
そんな不安に駆られながらも心身ともにボロボロのぼくの瞼は重力に逆らえず、旅の1日目はそっと幕を閉じた。
YouTube
伊東とスタッフJKが旅の模様をYouTubeでも振り返りました。