#3
2024.01.18

アメリカの3大トレイルを制覇したトリプルクラウン・ハイカーであり、この山と道JOURNALSでもコンチネンタルディバイドトレイルアパラチアントレイルでのスルーハイク記を連載してくれたトレイルネーム「スケッチ」こと河戸良佑さんのアリゾナトレイルでのスルーハイク記、全3回の最終回です。

メキシコ国境からユタ州との州境まで、南北800マイル(約1,280km)を歩く旅も遂に終盤。今回は、いよいよトレイルのハイライトであるグランドキャニオンへと足を踏み入れていくスケッチ。その圧倒的な眺望やトレイルを切り開いた人々の狂気に誘われるように、彼の意識も夢幻の虚空を彷徨い始めます。

アリゾナトレイルを終えても、彼の旅はまだまだ続きます。次のスケッチの旅にもどうぞご期待を。

文/写真/イラスト:河戸良佑

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グランドキャニオン

2023年5月1日、グランドキャニオン国立公園のマザーキャンプグラウンドのテントサイトで、缶詰のシチューをガスバーナーで温めながら僕は静かに興奮していた。昨日、丘の上の今は使われていない山火事を監視するタワーに登った際に目撃した巨大な大地の割れ目が脳裏に焼き付いていたからだ。まるで地球が裂けて、このまま割れてしまうかのように思えるほどで、明日にはそこに潜っていくのかと思うと胸の高鳴りを抑えることができなかった。

山火事監視タワー。

タワーから見えるグランドキャニオン。

グランドキャニオンが位置するのはアリゾナトレイルの最終セクションの1,124マイル(1,798km)から1,162マイル(1,859km)の区間であり、今回の旅のハイライトだ。ここに来るまで7週間ハイキングしてきたが、実際のところそれほど記憶に残っているセクションが無い。ハイカーたちとの素敵な出会いはたくさんあった。しかし、トレイルのほとんどが単調な砂漠だったので、僕はまるで瞑想するかのようにただ心を空っぽにして歩き続けていた。だが決して退屈だったわけではなく、トレイル上で完成させた日々のサイクルに身を任せてずっと漂い続けていた。

街のランドリーで出会った愉快なアリゾナトレイルハイカー。

ロングディスタンスハイキングには肉体的な才能はさほど必要ないと考えているが、必要な才能があるとするならば「ただ歩き続けられる才能」だろう。山岳地帯であろうと舗装路であろうと同じ精神状態でただ黙々と歩みを続ける必要がある。その日々をただ楽しむことができなければ、数ヶ月に及ぶ旅はただの苦行になってしまう。

2017年に歩いたコンチネンタル・ディバイド・トレイルは歩き続ける才能を試されているようなトレイルだった。

グランドキャニオンは全長450キロに渡るが、アリゾナトレイルの一部でもある南側のグランドキャニオンビレッジを下りて北側のノースリムグランドキャニオンを登り終えるだけだとたった20マイル(約32km)しかない。これは1日ないし2日で移動できてしまう距離だ。せっかくここまで歩いてきたのだから、サイドトレイルを使ってもう少し探索してみようと考えていた。

グランドキャニオン国立公園内は無料のバスが早朝から夕方までかなりの数往来している。キャンプ場からビジターセンターまでバスで移動して、グランドキャニオン内のルートとテント場所の予約をすることにした。

マザーキャンプグラウンドに泊まるために集まるアリゾナトレイルハイカーたち。

バスに15分ほど揺られると規模が大きいビジターセンターに到着した。中に入ると既に1組のハイカーたちが受付にいる女性のレンジャーにルートの相談をしており、少し待つと僕の番になった。その時、急に何の案も考えずにビジターセンターに来てしまったことが不安になってきた。多くのハイカーは既にルートを決め、ある程度しっかりとした計画を立てた上で来ているはずだ。それに比べて僕はどうだろう。アリゾナトレイル上のことしか知らず、その周辺のエリアに関しては無知に等しい。

グランドキャニオンのルートをレンジャーと共に検討するハイカー。

「どこのルートを検討していますか?」

レンジャーの質問に「実は何も知らなくて……」と、僕は小さな声で答えることしかできなかった。レンジャーはマスクをしていて表情が読み取れないが、あまりよく思われてない雰囲気がした。

「アリゾナトレイルをハイキングしているので、アルパインクライミングのようなルート以外は歩くことができると思います。でも、どこが良いか分からなくて。」

「そう言われても、私が決めることもできないわ。」

確かにその通りである。

「1日15マイルほど歩くとして、2日間でこの場所に戻って来れるルートはどこでしょう?」

「それならば、ハーミットレストルートからセダー・スプリングで1泊して戻って来るコースが良いかもしれないわね。」

レンジャーが地図でルートをなぞりながら僕に教える。アリゾナトレイルよりも東側に位置するルートで、地図から実際のトレイルを想像してみたが、地形が複雑すぎてよく分からない。

グランドキャニオンの地図。眺めていても全くイメージが湧いてこない。

「でも、ここのキャンプサイトは水場が無いから、途中のどこかで水を補給することだけは忘れないでね。グランドキャニオンを下るととても暑いから、たくさん持って行くのよ。あと、ポテトチップスも持って行くといいわ。」

「ポテトチップス?」

「私はポテトチップスが好きなのよ。」

そう言って女性のレンジャーはハハッと笑った。どうやら迷惑をかけている訳ではないようだ。コロナ禍がひと段落し、すでにアメリカでも道ゆく人はマスクをしていなかったが、レンジャーたちはつけていることが多く、それで表情が読み取れずに勘違いをしてしまった。マスクのせいで僕はアメリカでの会話にすごく困っていた。下手くそな英語が今まで以上に通じないのだ。

無事にキャンプ地を予約できて胸を撫で下ろす。実際のところメインルート以外のキャンプ地はほどんどが空いていた。

彼女に礼を言ってビジターセンターを後にして、その足で国立公園内の小さな売店へ向かい2日間の食料補給を済ませ、翌朝は午前4時に起き、急いで荷物をパッキングしてバス停へ向かった。”Hermits Rest Route Transfer”と書かれたバス停に到着すると、辺りはまだ暗かったが既に小さなバックパックを背負った男性が待っていた。

5分ほど待つと暗闇をライトで照らしながらバスがやってきた。バックパックを置いて席に座る。ハイカーを拾いながらバスがゆっくりと進んでいくと、次第に外が明るくなってきた。

バスは定刻通りやって来た。

1時間ほどで目的地に到着した。バスを降りた頃にはすっかり明るくなっており、もうすぐ日が昇りそうだった。まだ肌寒いのでレインウェアを着て歩き始める。

「グランドキャニオンの際は一体どんな光景なのだろう?」と僕は心躍らせる。手前に木々があってまだ見ることができない。僕は足早にトレイルを進んだ。

トレイルヘッドに石を積んで作られたゲート。アンバランスな鐘が印象的だった。一体いつの時代に作られたものだろうか。

トレイルが峡谷の淵に近づいくと、突然に視界が開けた。そこには巨大な壁が聳え立ち、幾重にも重なったオレンジや白の地層が朝日を浴びて輝いていた。恐る恐る底を覗いてみる。一体どれくらい深いのかと気になったが、幾つもせり出した台地が邪魔してその先を見ることができない。ひとつひとつがあまりにも巨大で、まるで飛行機から山脈を見下ろしているかのようだった。その巨大で底知れぬ深さの割れ目はずっと先まで続いており、最後は地平線にまで伸びて消えていた。

初めてグランドキャニオンを間近に見て、広大さに驚愕する。

思わずスケッチする。描きたくなる景色が多そうで、これから大変になりそうだと思う。

レンジャーからもらった紙の地図と地形を見比べるが、一体全体、どこまで下りていけばいいのか分からない。ハーミットレストルートはあまり分岐がないようなので、地図読みを諦めてとりあえず進んでみることにした。さすがは世界随一の観光地なだけあってトレイルはしっかりと整備されており、特に問題なく歩けそうだ。

いよいよ谷間に下りて行こうとすると、目の前には空と遠くに見える反対側の崖しかない。足元から長く続く下り坂はまるでジェットコースターで最初に急降下を始める時のようで、少し躊躇した。歩き始めるとすぐに日陰に入り、これから谷を下るので再び陽の光を浴びるのはしばらく後になりそうだと思った。

とても歩きやすいトレイルが続く。

1時間ほど歩くと屋根付きの休憩場所が現れ、その横に水場があった。地図を見るとこの先から明日の昼頃までは水場が無いようなので、補給がてら小休憩をすることにした。比較的新しい木製のベンチに腰を下ろして周囲を観察すると、小さく見えていた断層も近くで見ると大きさは様々で、3mから30m程はあろうかという大きなものまであり、それらが階段のような段差を作り出して続いている。トレイルはもうその場所しか通せないであろう絶妙な線を描いて、断層の上を縫う様にして伸びていた。こちら側に日が差して気温が上がる前にできるだけ歩いておきたいので、15分ほど休んでまた歩き始めた。

歩くにつれ新しい景色と山が次々に現れる。

グランドキャニオンのハイキングはそれまで体験したどのトレイルと比べても特異だった。峡谷と言ってもあまりにも広大なので、最下層に辿り着くまでに単純な下り坂だけではなく様々な地形変化がある。巨大な台地が出現し、またその上に丘があり、小高いものから頂上が見えないほどのものまである。

まるでパラシュートでいくつもの山々を降下し続けているようだと僕は思った。グランドキャニオンのトレイルは歩き始める地点が最も高い位置にあり、そこに広がる景色は巨大な岩山の頂のようで、それを眺めながら下り続けて台地に着くと、アップダウンのあるトレイルを進んでさらに下の台地に下りる。そこには先ほど見えていなかった新たな岩山が並んでいて、微妙に色や岩質が異なる。これを何度も繰り返しているうちに、ふと来た道を振り返ると、トレイルヘッドは完全に見えなくなっている。岩ひとつひとつが巨大なので遮られているのだ。そして、急激に高度が変わるために、植生もどんどん変わり、砂漠に近づいていく。歩き始めてからほんの1時間で全く違うエリアに飛び込んでしまったような不思議な感覚だ。

コロンビア川を見下ろしながらスケッチ。

絶景が続くのでスケッチし続ける。

テントサイトに着く前に出会った奇岩。

初日のキャンプサイトのシダースプリングがグランドキャニオン最深部に近いこともあって、基本的に下りな上にトレイルが分かりやすく迷うこともないので、とくに問題なく想定していたよりも早く到着した。

キャンプサイトはテントが4張りできるくらいに整地された平らな場所があるだけで他には何もなかったが、目の前には壮大な峡谷があり、その反対側には赤褐色の壁が視界一杯に広がっていた。

キャンプサイトを独り占め。レンジャーのアドバイス通りポテトチップスを買っていた。

今日はトレイル上で誰にも会わなかった。きっとほとんどの人はもっとメジャーなルートを歩くのだろう。誰もいないグランドキャニオンで過ごす時間は何事にも代えがたい贅沢な時間だった。

テントを設営しエアマットを膨らませて寝転ぶ。日差しは強いがテントの影に入ると涼しく、時おり吹く柔らかい風が気持ちいい。ふと、昨日のマーケットでクラフトビールを買っていたことを思い出し、グランドキャニオンの初日を祝して飲むことにした。バックパックの奥にしまっていたので、まだぬるくはなっていない。テントから出て、峡谷の眺め良いの場所でビール缶のプルタブを引き上げると、シュッとガスが抜ける音がした。左手を腰に当て勢い良く飲む。ひと口、ふた口、そして、少し間を置いて、もうひと口。あれ? 何かがおかしい。

ビールの味は問題ない。しかし、想像していたよりも味気ない。もうひと口飲むがやはり同じだ。その時気がついた。グランドキャニオンの壮大な景色が僕の中で刺激が強過ぎて、アルコールの快感を打ち消しているのだ。きっとこの景色に酔う為には何も必要ないのだろう。ただ、ここにいればいいだけだったのだ。

何もしない時間をゆっくりと楽しむ。

そう気がついた僕は、いつもと同じフリーズドライのパスタを作り、食後にコーヒーとスニッカーズを齧り、排便をして寝袋に入った。ただいつも通りのトレイル生活をしているだけだが、僕の心はずっと柔らかく宙を漂っていて、気がつけば眠りついていた。

グランドキャニオンは平坦なトレイルの箇所も多い。

トレイルを作った人たちの狂気

翌日、僕はブライトエンジェルトレイルと呼ばれる最も主要なルートを使って峡谷を登り、再び一昨日のグランドキャニオンキャンプグラウンドに戻ってきた。食料の補給のためマーケットへ向かうと、表のテーブルにハイカーたち4人が談笑をしていた。そのうちふたりは知っている顔で、あとのふたりは初めて見る。挨拶して僕もその輪に加わった。皆、グランドキャニオンを歩くことに興奮していたが、その先のトレイルに心配はしていないようだった。アリゾナトレイルは残り150マイルほどで僕らは6日間で無理なく歩けてしまう。皆、もうアリゾナトレイルを最後まで歩き通せると確信しているのだ。

のんびりと時間を過ごすハイカーたち。

翌日午前7時に僕は再びグランドキャニオンを降下し始めた。アリゾナトレイルは昨日登ってきたブライトエンジェルトレイルの少し西側に位置し、ずっと進むと峡谷を流れるコロンビア川で再びブライトエンジェルトレイルに合流しそのまま北側の峡谷を登ることになる。

アリゾナトレイルは一昨日歩いたハーミットレストルートとは打って変わり多くのハイカーたちで賑わっており、中にはトレイルランニングの格好で走っている人たちもいる。皆、上から眺めるグランドキャニオンよりも内側からの景色に圧倒されて感嘆の声を漏らしていた。早くも2度目のグランドキャニオンになったが、その新鮮な感動は薄れることなく、圧倒的で広大な光景に幾度となく足を止めて、それを呆然と眺めた。アリゾナトレイルはハーミットレストトレイルと比べ最短コースでコロンビア川に向かっているので、より峡谷に身を投げ出して降下しているような感覚が強く、非常に楽しい。この感覚は本当に奇妙な感覚で僕は好きだった。

人は多いが、ダイナミックな景色が連続するアリゾナトレイル。

スケッチを止めることができない。

ずっと下り続けると手掘りのトロッコを通すようなトンネルが現れ、それを抜けると大きな鉄橋に出た。足元は頑丈な木の板が敷いてあり、その下をエメルド色のコロラド川がゆったりと流れている。眺めていると巨大なラフティングボートが2艇浮かんでいるのが見えた。乾いた大地の奥底にこんなにも豊富な水が存在することに驚く。

コロラド川に架かる長い橋を渡る。

橋を渡り、トレイルを進むとコロラド川に流れ込む支流が現れた。ここはそれほどの深さはない。僕は数日シャワーを浴びてないことを思い出した。靴を脱いで服を着たまま浅瀬に座って腰をつける。想像していたより水温がずっと低い。頭と体を浸すか少し躊躇したが、意を決して仰向け状態で倒れて水に体を浸すと思ったよりも流れが急で、水圧を頭で強く受けて体が反転して流されそうになるので慌てて起き上がった。あまりの寒さで体が震える。服を脱ぎ捨てて、太陽の熱をいっぱいに浴びた岩に抱きついて体を温める。するとタオルで拭いたかのように、体はサッと乾いていった。

汚れた服も川で洗って岩の上に並べる。こちらはすぐに乾きはしないので、岩の上で体を丸くして待つことにした。谷底から周囲を見ると小さな岩山が見えるだけで、それ以外に視界を遮るものがなく青い空が広がっている。まるで低山の小川に佇んでいるようで、ここがあの巨大な峡谷の最深部だとは信じ難かった。

スタート時と比べるととても痩せた。しかしダイエット目的にハイキングをするのは効率が悪すぎるといつも思う。

服が乾くまでの時間に絵を描いて過ごした。

服が乾いたので荷物をまとめ進むとすぐにブライトエンジェル・キャンプグラウンドが現れた。ここは驚くほど施設が整っていて、ロッジやトイレまである。そして何よりも驚いたのが水道と電気が通っていることだ。濾過が不要な水道の水をたんまりとプラティパスの水筒に入れてアリゾナトレイルハイカー用のキャンプサイトに向かった。

歩いている途中にトレイル脇に1.5メートルほどの錆びた鉄の棒が立てられていることに気がついた。よく見ると鉄の棒は先端が二股に分かれていて、その先同士を細長いプレートで繋げている。どれももうかなり長い期間使われていないようだ。鉄の棒は等間隔でトレイル脇にずっと続いていた。これがブライトエンジェル・トレイルに沿ってずっとあるのかもしれないと想像した時に、もしかしてこの棒は電線を渡す電柱だったのではないか、と考えてハッとした。

トレイル脇に等間隔で並ぶ鉄の棒。

川を渡す至って普通の橋だが、ここを冒険するために古くに作られたのでは……と思うと感慨深い。

僕はかつてこの場所を発見した探検家、そして物資を運ぶためにトレイルを作った人たちの狂気に驚かされた。今でこそ僕のようはハイカーがのんびりと気軽に歩いているが、彼らがグランドキャニオンの淵に立った時、その底はまるでこの世と隔絶された魔界のように感じただろう。彼らはまず徒歩でさまざまなルートを試み、そして馬が通れるように拡張したに違いない。一体それはどれほど無謀な挑戦だったのだろう。きっと周囲からは奇怪な眼差しを向けられていたに違いない。こんな最果ての地を開拓して、何の利益があるのだろうかと思われていたかもしれない。人もたくさん亡くなっただろう。でも、どうしても地図の空白を埋めたくて堪らない狂人たちによってこの場所が発見され、そして今日に至ってはアメリカが誇る観光地として、世界中から人が訪れるようになったのだ。僕もそのひとりでしかない。そして、鉄棒にそっと触れてみる。錆のざらつきを掌で感じた。

僕はこんなところで何をしてるんだろう

そんなことを考えながら歩いていると、今夜泊まる予定だったキャンプサイトを通り過ぎていた。僕はそのキャンプサイトしか予約していなかったので、他の場所で寝ることはできない。でも、ほんの5分の道のりを戻ることが何故かとても嫌だった。時刻はまだ正午を少し過ぎた頃。このまま歩き続けてもいいかもしれない。もし夜になっても、これほどしっかりとしたトレイルならナイトハイクしても危険ではないだろう。

グランドキャニオンの陰でトレイルは早く暗くなるが、空はまだ明るい。

グランドキャニオンを見上げて歩くものまた迫力がある。

キャンプ地を通り過ぎて僕は歩き続ける。次第に薄暗くなり始め、ついにはヘッドライトを点灯させてゆっくりと歩いた。少し前までは日中の熱を地面に残して暖かかったが、徐々に冷え込んできている。トレイル脇に体ひとつ入るほどの小さな窪みを見つけ、僕はバックパックを下して、そこに座り込む。日中は多くのハイカーが往来していたが、深夜にトレイルを歩くハイカーなどおらず、あたりは静まり返っている。ライトを消して見上げると高く切り立った山のような谷間の割れ目から無数の星が燦々と輝いている。新月に近いので星がいつもより多い。多過ぎるくらいだ。

「僕はこんなところで何をしてるんだろう」

そう思った時、ある青年の姿が脳裏に浮かんだ。彼は身長は僕よりも少し低く、強くカールした癖毛が印象的だった。彼の容姿を記憶から明瞭に呼び起こそうとしても途端にぼやけてしまい、うまく特徴を掴むことができない。ただはっきりと思い出せるのが、最後に見た彼の顔が蝋人形のように無機質であったことだ。

彼は僕の高校の同級生で親しくはあったが、親友と呼べるほどの仲ではなかった。だから彼が電車の脱線事故で死んだ時も深く悲しまなかった。ただ、快活でいつも笑顔を絶やさず、可愛らしい印象だった彼が、事故での損傷の激しさから変わり果てた姿で棺桶の中で横になっているのを見て、僕は強いショックを受けた。それは36歳になった今もことあるごとに思い出してしまうほどだ。死がこんなにも身近で、いつも僕のそばに存在することをハッキリと認識させられた瞬間だった。

彼のことをただぼんやりと思い出し、そして星を眺めた。今の僕にとって彼は特別な存在ではない。けれど、なぜか時折思い出す。ただそれだけだ。年を重ねるごとに特に感情も湧いて来なくなってきた。でも、思い出すたびに僕は特別では無いただの人間なのだと思い出させてくれる。そして、いつか死ぬのだと。

谷間を見下ろすと物音ひとつしない闇が続いていた。この夜の闇の中にずっといたいと思った。キャンプ地ではないが座っているだけなので特に問題はないだろう。

気がつくと眠っていたようで午前5時になっていた。周囲はまだ暗く物音ひとつしない。湯を沸かし、インスタントコーヒーを作る。スニッカーズが冷えて固まっているので、少しコーヒーに浸して柔らかくしてから食べた。

グランドキャニオンをまたゆっくり歩く。

バックパックを背負ってゆっくり歩き始める。ここ数日は体調がすこぶる良い。アリゾナトレイルを歩き始めた時と比べて足もだいぶ細く引き締まっている。心と体が同調して、歩くことがとても気持ちが良い。黙々と坂を登っていると、そのまま燦々と輝く星空まで辿り着けそうな気がした。

その時、「嗚呼、僕のアリゾナトレイルはもう終わっていくんだな」、と強く思った。行程はまだ4日ほど残っているが、これからこの瞬間を超えることはないだろう。この先の終点のユタ州まで僕はこの余韻に酔いながら漂うことしかできないだろう。

できればもっと長い距離を歩きたかった。アリゾナトレイルの800マイルという距離は僕には短すぎた。僕は大切なことに気がつくのにいつも人より時間がかかる。もっと聡明な人間になりたかった。僕がどれだけ長い距離を歩いても、どれだけの時間をトレイルで過ごしても、その中で得られるものは小さな飴玉ほどしかない。そして、その甘さを忘れる前にまたトレイルに戻ることしかできないのだ。

でも、せめて今、この瞬間だけは偽りなく記憶しておきたい。僕は歩き続ける。

振り返ると峡谷の南側がはっきりと見えた。と同時に旅の終わりを感じた。

あとがき

4日後、僕はアリゾナトレイルを無事に歩き終えることができた。これまでになくトラブルが無く、絵を描き続けることができたトレイルだった。故にとても満足度は高かったが、何かを出し尽くして果ててしまうような状態にはならなかった。本編では距離の短さ故と書いたが、それが本当に距離のせいなのか、それとも僕のハイキングに対する耐性が上がったせいなのかは、まだ分からない。

しかし、アメリカ3大トレイル、それに加えてジョン・ミューア・トレイルが注目される中、このアリゾナトレイルの完成度やグランドキャニオンの素晴らしさはもっと評価されて良いように感じる。今回の連載は僕の冒険譚で、僕だけの大切な思い出だ。だから、君が歩いたからといって同じ心情にはならないことだけは断言しておきたい。どんなトレイルも歩いた人の数だけ物語が生まれる。だから、YouTubeやInstagramでトレイルのことを知るなんて、あまり意味のない行為だ。そもそもロング・ディスタンス・ハイカーはまだ見ぬ土地を自分の足で体験していく旅人だと僕は思っている。

他人の評価なんて気にせずに自分だけの物語を作りにトレイルに出よう。パックウェイトやフォロワー数なんて気にせず、ただ歩くだけでいいじゃないか。

最後に今回も僕に好きなように文章を書ける機会をくれた山と道代表の夏目さん、そして根気強く編集をしてくれた三田さん本当にありがとう。愛してるぜ。

河戸 良佑
河戸 良佑
独学で絵を描いていたら、いつの間にかイラストレーターに。さらに2015年にPacific Crest Trail、2017年にContinental Divid Trail、2019年にアパラチアントレイルをスルーハイクして、いつのまにかトリプルクラウン・ハイカーに。アメリカで歩きながら絵を描いていたので、トレイルネームはスケッチ。 インスタグラムアカウント: Ryosuke Kawato(@ryosuke_iwashi)
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