社是としてスタッフには「ハイキングに行くこと」が課される山と道。「願ったり叶ったり!」と、あちらの山こちらの山、足繁く通うスタッフたち。この『山と道トレイルログ』は、そんなスタッフの日々のハイキングの記録です。今回は、山と道京都スタッフの「大ちゃん」こと伊東大輔が、社内の「ULハイキング研修制度」を利用して、海抜0mから日本のてっぺんである富士山までを歩いた15日間の記録の前編をお届けします。
海外でのロングトレイル経験が豊富でありながら、あまり日本の山には登ってこなかった伊東。であればと目標は大きく、富山県から400kmを歩いて日本のてっぺん「富士山」を目指します。海抜0mから北アルプスの山々を超えて富士山を目指す伊東は、暑さにやられながらも途中でバディを見つけたり、日本の山岳地帯の絶景に魅了されたりと、順調に旅を進めます。しかし、背後からは台風が迫ってきていて…。
プロローグ
「ULハイキング研修」。
ハイカーにとってご褒美のようなその研修の存在は、山と道に入社する以前から知っていた。自らテーマや場所を決めてルートを決定できるのだが、ぼくの頭の中には世界各国さまざまな場所がぼんやりと浮かんでいた。
「台湾を南北に突っ切る? それとも最近気になっている中央アジアか? 東南アジアを適当に歩いてみるのもあり?」
歩きたい場所をピックアップしたものの、ぼんやりとしたイメージが浮かぶだけで、「これだ!」というしっくりくるプランは決めきれないでいた。
そこでぼくは「研修」と割り切って今回のプランを立てることにした。自分を満足させる旅をするなら少なくとも1ヶ月は欲しいし、個人的に行きたい場所は、身銭を切って旅をしたほうがきっと楽しいはずだ。そもそも研修の目的って楽しむことじゃなくて、「何かを学びにいく」ことだよね? そう考えた生真面目なぼくは、いま自分に足りないものは何なのかという問いを自分自身に投げかけた。
これまでのハイキングを振り返ると、言うまでもなくアメリカをはじめとする海外のロングトレイルの思い出が蘇ってくる。長く歩くということに関してはそれなりには経験している自負もある。
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2022年に歩いたパシフィック・クレスト・トレイル(アメリカ/4,265km)
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2023年に歩いたコンチネンタル・ディバイド・トレイル(アメリカ/約5,000km)
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同じく2023年に歩いたカミーノのフランス人の道(スペイン/約900km)
しかし、山と道京都の店頭に立ち、お客さんの山行計画やよく行く山域の話を聞くと、「北アルプス」や「八ヶ岳」といったような返答が多く返ってくる。当たり前の話だが、海外を長く歩く人なんて圧倒的に少数派なのだ。ならば今、自分に必要な経験は日本の山岳地帯を歩くことなのではないか。
もちろん日本も歩いたことはあるが、どれも2〜3日の山行であるし、自分の中でのサンプルがあまりにも少なすぎる。今回の研修で日本の山岳地帯の全てを把握するなんてできっこないが、山と道製品やULハイキングを伝える側として出来る限りのことはやっておこう。せっかく店頭に足を運んでくれるハイカーたちに、上辺だけの接客なんてするべきではないし、したくはない。
こうして、ぼんやりとしていたULハイキング研修のイメージが、「日本の山岳地帯を歩く」という1本の軸のもと、日を追うごとにそのカタチが鮮明になっていった。
From Zero
8月20日、わずかに聞こえてくる波の音へ吸い込まれるように足を進めると、太陽に照らされ、透明度を増した日本海が視界いっぱいに飛び込んできた。ここは富山県滑川市の海岸沿いに位置する名もなき浜。当日に見つけた適当な場所なのだが、ここが今回の旅のスタート地点となる。
ぼくは海抜0mから日本の「てっぺん」を目指す旅を地図上に描いた。
海抜0mの日本海をスタートし、まずは北アルプスの玄関口の馬場島へ。早月尾根で剱岳へ登頂したあと、五色ヶ原〜薬師岳〜雲の平〜鷲羽岳〜双六岳と北アルプスを縦走し、長野県松本市へ向かう。補給後、美ヶ原〜八ヶ岳〜奥秩父と名だたる山域を通過し、ゴールは日本の「てっぺん」である富士山に設定した。その距離、およそ400km。2週間を目処に歩き終える予定だが、悪天候や体調不良も十分に考えられるし、柔軟に歩いて行こう。
これから始まる旅物語に胸を高鳴らせ、今いる場所とはまるで別世界のようにダイナミックに広がる山影に向かって、ゆっくりと歩き始めた。
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日本海から北アルプス、美ヶ原、八ヶ岳、奥秩父を繋ぎ、富士山を旅のゴールに設定した。
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スタート地点の日本海。日の光が差し込んだ水面がキラキラと美しい。
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歩き始めた田舎道から見える北アルプスの山々。特別でない生活道もぼくの旅路となる。
「これまで何千キロも歩いてきてるし、400kmなんてあっという間だろうな〜。」
そんな余裕をかまして何のトレーニングもしてこなかったが、前泊で立ち寄った富山駅からホテルまでの1kmにも満たない距離の間に、膝に違和感を覚えていた。これまでロングトレイルを歩いてきたとはいえ、もう1年も前の話。もしかしたらその時の貯金はすでに吐き出してしまっているのかもしれない。
そして何よりもジメジメと暑く、全身の毛穴から汗が噴き出てくる感覚が不快で仕方がない。8月中旬の夏真っ只中なので当たり前なのだが、久々の日本らしい湿気じみた暑さに体が拒否反応を起こしはじめている。衰え切った体の、怠け心を引っ提げたぼくは、30分も歩かないうちに逃げ込むようにセブンイレブンに駆け込んだ。
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暑さもそうだがまったく心が前に進んでいかない。一言で表現すると、やる気がでない。
アイスコーヒーを片手にクールダウンをしたぼくは、躊躇なく照りつける太陽に文句を吐き捨てながら、再び北アルプスの玄関口へと歩き出した。目的地である馬場島までは約30kmのロード歩き。時間に余裕があれば標高2,189mの早月小屋まで行ってしまおうと考えていたが、今の自分を客観的に見るとどうやら現実的ではなさそうだ。
山へ近づくにつれて人の気配は一気になくなり、大きな工場や発電所、畜舎が点々とし、田舎らしい景色が広がっていた。畜舎から漂ってくる家畜の何とも言えない臭いが、どこかアメリカの田舎道を想起させる。そんなエモーショナルな思い出に浸っていると、暑くて歩くのが嫌だったことなんて忘れてしまい、やがて周りの景色は自然が色濃くなってきた。
中部山岳自然公園の石碑をくぐり、間もなくして北アルプスの玄関口である馬場島に到着した。まだ14時頃だったので先へ進もうかと考えたが、馬場島から続く北アルプス三大急登である早月尾根が億劫に感じ、心も体も到底前向きにはならない。時間も余裕があるし先に進みたいところだが、なんせ無理をしたって楽しくならないことは過去の経験から心得ている。盆明けでガラガラだった馬場島のキャンプ場にテントを張ったぼくは、暑さに耐えながら眠りについた。
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独特な臭いが漂う畜舎。歩いている人はどこを見渡しても見つからず、すれ違うのは作業中のトラックだけだ。
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美しい清流へ飛び込みたい衝動にかられたが、歩き始めたばかりだったので自粛することに。
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選んだシェルターはシックスムーンデザインズのルナーソロをカスタムしたもの。フロアとメッシュを切り取り、ドアのジッパーは取り外して縫い合わせている。
始まりは試練から
翌朝4時、テントの横を通り過ぎていく、どこか遠慮がちな足音で目が覚めた。おそらく剱岳へ日帰り登山に向かうハイカーたちだろう。本来なら3時頃には行動し始めたかったが、蒸し暑さとテント内に飛び回る虫のせいで寝つきが悪く、夜中のうちに諦めてしまっていた。疲れのせいか、寝不足のせいか、なんだか重たい体を叩き起こし、先行のハイカーたちを追うように早月尾根へと足を踏み入れた。
早月尾根は標高差約2,300mを長い急勾配を使って剱岳へと登るコースで、まずは木の段差が続く樹林帯を駆け上がる。あたりは真っ暗で、景色はヘッドライトで照らされているほんのわずかな世界しかなく退屈だったが、久しぶりのひとりの山歩きに少しワクワクしていた。やがて太陽が顔を出し、高度を上げていくにつれて広がる視界にいつもの感覚を取り戻してきた。
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早月尾根登山口の看板。あたりは真っ暗。
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昨日スタートした日本海が視界いっぱいに広がった。
「大ちゃんさ〜ん!」
早月小屋に到着したぼくを2階の窓から手を振り出迎えてくれたのは、今夏この場所で働いているユイちゃんだ。彼女とは2年前に北海道のニセコにあるSPROUT(※HLC北海道の拠点、“Camp&Go”にあるカフェ。アンバサダーである峠さんがオーナーを務める、ニセコの遊び発信基地的なロースタリーカフェ)で出会い、久しぶりの再会を楽しみにしていた。これから続く岩稜帯に備えるため、10分ほど休憩しようと考えていたが、久々の顔と、ほんのりぼくを照らす太陽の心地よさに時間を忘れ、気づけば1時間が経過していた。
「ここから山頂まで2時間くらいだと思います! 気をつけて旅を続けてくださいね。」
そう言葉をかけてくれたユイちゃんに手を振り、ヘルメットを装着したぼくはしっかりとストラップを締め、剱岳山頂に向かって再び歩き出した。
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麓から担いできたお土産をユイちゃんに手渡したので、少しバックパックが軽くなった。
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歩き出してすぐに早月小屋を見下ろせる場所まで来た。
しばらく歩いた青々しい樹林帯を抜けると、鎖や両手を使って歩く岩場が増え、徐々に緊張感が漂ってきた。
「あ〜なんかしんどい!」
大きな岩をよじ登るのは想像以上に体力が削られる。乱れた呼吸を整えながら、文句を吐き出しそうな自分を抑えるように、「自分が歩きたかったルートなんだろ?」という魔法の呪文を頭の中で唱えた。そんな様子で騙し騙し歩き続けると、雲が纏わりつくゴツゴツした岩の稜線が視界いっぱいに広がり、その先に剱岳の山頂を捉えた。山頂という人参をぶら下げられたぼくは、足取り軽くその場所に吸い込まれた。
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「試練と憧れ」と表現される早月尾根ルートは、ダイナミックな岩場が続く。
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標高2,999mの剱岳山頂で記念撮影。
山頂で休憩していたハイカーとしばらく談笑していると、時刻は11時を回っていた。わがままを言うと今日中に五色ヶ原まで歩きたいところだが、時間的に少しタイトか。それに、この先は難所と呼ばれる「カニの横ばい」などの急峻な岩場が続くので、ペースも上がらないだろう。急ぐ気持ちを抑えるように自分にブレーキをかけたぼくは、バックパックのショルダーを締め直した。
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剱岳山頂付近からの景色。おそらくこの稜線を歩いていくことになる。
剱岳から南へ伸びる別山ルートは圧倒的なスケール感だ。ダイナミックという言葉を使えば聞こえは良いが、他のハイカーが岩を上り下りしている様子を見ると、「え? あそこがルートなの?」と疑ってしまうような垂直に近い場所も少なくはない。
ぼくの前には大学のワンダーフォーゲル部のパーティーが先行しており、先生からアドバイスを受ける彼らに混じるようにして、こっそり指導に耳を傾けていた。トレイルが狭いので所々で渋滞していたが、先行者を観察する時間は良い具合に気を落ち着かせたり、イメージトレーニングをする余白となっていた。
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先行していたワンダーフォーゲル部のパーティー。
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岩に設置された鎖を頼りに稜線を進む。
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垂直に近い急なハシゴ。
13時過ぎ、難所を越えて剱沢小屋に到着したぼくは肩の荷を下ろした。体力的には余裕があったが、ここまで続いてきた岩場で気疲れしたので、少し休憩を挟むことにした。実際に自分が岩場を下っている時、気を緩めずに一歩一歩集中すれば問題なかったが、少しの油断が大事故に繋がりかねない場所だったことは間違いないだろう。無事に剱岳を越えたことは本当に運がよかっただけなのかもしれない。天気が良かったのもそのひとつだろう。
旅のバディーは突然に
3日目の早朝、テントから顔を出したぼくに、朝霧がかかった立山連峰が神秘的な表情を向けていた。
結局、昨日は剱御前小舎から稜線を下り、雷鳥沢野営場で宿泊をしていた。日本の登山の「15時にはテント場に到着する」というルールを少し窮屈に感じていたが、慣れない岩稜帯歩きで精神的に疲れていたので、ちょうど良い休息となった。
今日は約23km先の太郎平キャンプ場まで歩こうと予定していたが、コースタイムで19時間ほどある行程だ。かといってひとつ手前のテント場のスゴ乗越だと、13時間ほどのコースタイムなので少し近すぎる。色々プランを考えてはみたが、結局いつも通りの「なるようになるだろう」という楽観さに身を任せ、雷鳥沢を後にした。
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フロアレステントから望む立山連峰。
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午前4時頃の雷鳥沢野営場。多くの登山者が出発の準備をしている。
再び稜線を登ると、同時にほんのりと暖かい太陽が昇ってきた。昨日は岩場のアップダウンで体力を根こそぎ持っていかれ、先の不安に駆られていたが、立山から五色ヶ原まではまさにトレイルと呼ぶにふさわしい気持ちの良い稜線が続き、昨日までの疲れなんて忘れて快調にペースを上げた。そんな調子で3時間ほど歩くときれいに整備された木道が現れ、それをたどるように歩き進めると、あっという間に五色ヶ原に到着した。
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若干ガスがかかっているが、見事な稜線が続く。
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乾いた木道歩きは知らず知らずのうちにペースを上げてしまう。木道の先に見えるのが五色ヶ原小屋。
束の間の休憩を挟んだあと、昨日の遅れを取り戻すように、そして高揚した気持ちをぶつけるように夢中で歩き続けた。正直、どんな景色だったかも覚えていないほど、歩くことに集中していたのだと思う。
正午にスゴ乗越小屋に到着したぼくは、見慣れた顔に驚きを隠せなかった。バックパックを背負い、トレッキングポールを両手に構え、今にも歩き出しそうな様子の彼は、友人であるリョウスケさんだ。
彼が同じ時期に北アルプスを歩くとは聞いていたが、ぼくより1日遅れで同じルートを歩く予定だったので、山の中で会うことは諦めていた。しかし悪天候の予報で剱岳をパスした彼は、昨日雷鳥沢から入山したそうで、ふたりの予定がぴったりと重なったというわけだ。驚きと嬉しさでハグを交わしたぼくたちは、しばらくの間いつものように談笑した。
これからの予定を聞くと、彼は太郎平キャンプ場で宿泊するつもりだそう。正直、疲れも溜まっており、スゴ乗越で泊まってもいいかなと思い始めていたが、まだ12時だし、彼との縁もあるので同じく太郎平を目指すことに決めた。休憩を終えたリョウスケさんを見送ったぼくは、短時間で効率的に休息をとるため、誰もいないベンチの上に寝そべり真っ青な空を見上げた。
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リョウスケさんは「みちのく潮風トレイル」をスルーハイクしているロングトレイルハイカーでもある。
小1時間休んだあと、ぼくとリョウスケさんの鬼ごっこが何の合図もなしに始まった。
疲れていたはずなのに、しょうもない遊びの目的があると、どうして体が軽くなるのだろう。「気持ちでどうにかしよう」みたいな根性論は好きではないが、もしかしたら「疲れた」なんて脳が勝手に思い込んでいるだけなのかもしれない。などと言う結論の出るはずもないテーマで頭の中の暇を潰し、トレイルの先に見える友人の背中を思い浮かべて前へ進んだ。
リョウスケさんからは「自分は歩くのが遅い」と常々聞いていたので、すぐに追いつくかと思っていたが、なかなか彼の姿が見えてこない。「知らない間に追い抜いたのか?」と思い始めた頃、薬師岳から見下ろす稜線に彼の姿を捉えた。ウキウキしながら小走りで彼を追いかけ続けると、目的地の太郎平キャンプ場にあっという間にたどり着いてしまった。歩くことに夢中で気にも留めなかったが、小雨が振り始めていて天気が崩れそうだ。早くテントを設営したいなと、足早に受付へ向かうと、そこにはリョウスケさんの姿があった。
「あ、リョウスケさん! いつ着いたんですか? 早かったですね!」
「さっき着いたばかりです! 大ちゃんに追いつかれないようにめちゃくちゃ頑張りました(笑)」
追いつかれるとか追いつかれないとかまったく気にしない人だと思っていたが、彼も自然と鬼ごっこをしてしまっていたようだ。
「もうテント張ったんですか?」
「いえ! ビール飲んでました!」
雨が降りそうな一刻も早くテントを設置したい状況で、ぼけーっと欲望を優先する姿は、アメリカのロングトレイルハイカーたちを思い出した。やっぱり自由なロングトレイルハイカーって最高だな。
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薬師岳付近はガスに包まれており、時折、小雨が降ってきていた。
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テント内で地図を広げ、明日の計画を立てるリョウスケさん。
4日目の朝、RPGのように仲間を増やしたぼくは、星を眺められる暗がりの中、リョウスケさんと一緒に雲ノ平を目指して歩き始めた。たまたまこの先の予定ルートが同じだったので一緒に歩き始めたが、あくまで自分のペースで歩きたいわがままなぼくたちは、基本的には各自で好きなように歩くスタイルだ。
薬師沢小屋で休憩を終え、ぼくたちは雲ノ平に続く苔むした急登へ向かった。苔にまみれた大きな岩をよじ登るのは気が重いが、2日前に経験した剱岳のそれに比べるといくらかマシに感じる。それにこのルートはロングトレイルに没頭する前に歩いていたので、「あの時余裕で歩けたのだから、いまならもちろん余裕だよね?」と、まじないをかけるように先を目指した。
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薬師沢小屋の吊り橋を恐る恐る渡るリョウスケさんにニヤニヤさせられる。
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薬師沢小屋から雲ノ平までの急登は、苔むした巨岩の登りが続く。
順調すぎるほど軽快に急登を登っていると、いつの間にか後ろのリョウスケさんの姿は見えなくなってしまった。どうせまた会うだろうと、ペースを緩めず一心不乱に湿気じみたトレイルを進むと、踏み跡が不明瞭になっていき、薮を漕ぐぼくの周りの自然の濃度が増してきた。そう聞くと大自然に身を投じているような冒険感が出るが……おそらくこれは道迷いに違いない。
こんなメジャールートがこれほど自然に還っているとは考えにくいし、踏みしめる地面もなんだか緩い。GPSを確認するとルートから少し逸れていたので、来た道を引き返そうかと考え始めたその時、薮の向こう側から話し声が聞こえてきた。「助かった!」という気持ちで声の方へ薮を漕ぎ進めると、ふたりのハイカーが不安そうな表情で、少し身構えながらこちらを見つめていた。
「あ……おはようございます〜。」
「おはようございます。草陰から物音がするので熊かと思いました(笑)」
「驚かせてすいません! お気をつけて〜。」
いやいやお前が気をつけろよと自分にツッコミを入れたぼくの目の前には、フラットで歩きやすい木道が広がっていた。疑いようのない明瞭なトレイルに気を良くしたぼくの歩くスピードは自然に上がり、薬師沢小屋を出発して2時間も経たないうちに、目的地の雲ノ平小屋にたどり着いた。
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標高2,600m付近の雲ノ平は北アルプスの最奥部に広がる高原だ。
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雲ノ平小屋で働くバナちゃんと。彼女は2024年にカミーノのフランス人の道を歩いて、2025年にはニュージーランドを南北に貫くテアラロアをスルーハイクする計画を立てている。
この日は絵に描いたようなハイキング日和で、順調に祖父岳、鷲羽岳と歩き進め、15時頃には宿泊予定の双六山荘にたどり着いた。リョウスケさんとは雲ノ平山荘を出発して以来、顔を合わせておらず、太陽が沈み始めてもなかなか姿を見せない。ぼくが到着してから2時間ほどが経過し、別行動とは言えさすがに心配をし始めた頃、落ちていく夕日をバックにドラマのワンシーンのようにリョウスケさんが姿を現した。話を聞くと、昨日の鬼ごっこで相当ペースを上げたせいで、疲労をかなり溜め込んでいたそうだ。
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天候に恵まれ、北アルプスの景色を堪能させてもらった。
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鷲羽岳へと続く稜線。
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鷲羽岳方面から三俣山荘を見下ろす。前を歩くのは韓国からきた登山グループ。
迫る雨雲、現る救世主
翌朝、ヘッドライトの明かりを頼りに、槍ヶ岳へ向うため西鎌尾根へと足を踏み入れた。当初の計画では槍ヶ岳〜西岳〜大天井岳〜常念岳を経由して一ノ沢登山口へ下山しようと考えていたが、なんとなく大天井岳から燕岳に続く稜線を歩きたくなったので中房温泉登山口への下山に変更した。そして実は台風が接近しており、昼から天気が崩れる予報なので、なるべく早く下山したいぼくたちは早朝から行動していた。しかし、山にかかった濃霧と足場の悪い岩場で、急ぐ気持ちとは裏腹にペースが上がらない。
かれこれ5日目なので疲れも溜まってきており、もはやハイキングを楽しむというよりは、一歩一歩地道に足を運ぶ作業となっていたが、足を止めない限り前へ進んでいき、ついに目の前に鋭利な岩の塊が現れた。
「槍ヶ岳のピークはどうします? せっかく持ってきたヘルメット使わなくていいんですか?」
そう冗談っぽくリョウスケさんに問いかけると、
「いや〜、登らなくて良いんじゃないんですか?」
という返事が潔く返ってきた。
どこまでも山頂に興味のないふたりの意見は一致し、とりあえず槍ヶ岳をバックに当てつけたように記念写真を撮影してSNSにアップした。何気ない考えなしの行動だったが、これが後のぼくたちの未来を変えるとは思いもしなかった。
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早朝の薄暗さと山にかかった霧がなんとも神秘的な雰囲気を醸し出している。
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岩場を歩き進めると段々と槍ヶ岳が近づいてきた。
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「燕岳経由で街に降ります」みたいな簡単な文面を添えて、当日SNSにアップした写真。
上空に登ってくる雲を横目に急ぎ足で歩き続けると、11時頃に大天井ヒュッテに到着した。中房温泉までのコースタイムを確認すると残り5時間30分だったので、なんとか日が沈むまでに下山できそうだ。後ろを歩くリョウスケさんの疲労具合も心配だが、彼も自立したハイカーだし、下山できないと判断すればどこかに宿泊するだろう。一緒に歩いているともちろん楽しいが、言い方は悪いがこういう都合の良い関係って気がラクだ。
夢中で歩くとあっという間に燕山荘に到着し、北アルプスに別れを告げたぼくは、久しぶりの街に誘われるように下山を開始した。この頃には山を覆い尽くすほどの雲がかかってきており、夕方のように暗くなってしまった様子に気持ちが急かされた。
逃げるように下山を開始し、合戦小屋を過ぎた頃、なんの助走もなく突然トップスピードでゲリラ豪雨が降り始め、みるみるうちにトレイルが沢のようになってしまった。樹林帯にも関わらず、レインウェアで身を覆う前に全身を濡らされ、大きな水たまりに足元を飲み込まれたぼくは、深く考えないようにしていた「この後どうするか」という問題を突きつけられた。中房温泉から近くの穂高駅まで路線バスが走っているが、日本海から富士山まで、登山道なりロードで歩くことを計画したので、できるだけその逃げ道は使いたくない。
けれど明日からは台風接近に伴う悪天候が続く予定なので、どこかでリセットしたい気持ちも頭の片隅、いや、割とど真ん中に居座っている。まぁ下りればどうにかなるだろうと、考えることを投げ出したぼくは一目散に雨から逃げた。
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燕岳方面への稜線にはたくさんの雲がかかってきていた。
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みるみるうちにトレイルに雨が流れ出してきた。
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シューズの中はあっという間に水浸しになってしまった。
足元をべちゃべちゃにしながら沢のようなトレイルを下山し、16時頃に中房温泉登山口にたどり着いた。ひとまず雨宿りできそうな屋根の下に逃げ込み、リョウスケさんから連絡が入っていないか確認するため、スマホのフライトモードを解除した。するとずっと頭の中につきまとっていた「この後どうするか問題」を吹き飛ばす救いのメッセージが、松本市在住の友人であるウッシーから送られてきていた。
「雨すごいけど下山できそう? 中房温泉の駐車場で待ってるね〜!」
「……え? マジで?」
もちろん迎えにきてと連絡をしていたわけではないし、なんなら行程すら伝えていていない。なのになぜ、ぼくがここに下りてきていることが分かったんだ? 不思議に思ってウッシーにメッセージを送ると、朝に気まぐれでアップしたSNSを見て、中房温泉に下山することを知ったそうだ。大雨の中、迎えにきてくれて助かったという気持ちもあったが、いつ来るか、何なら来るかも分からないぼくのために、辺境な場所まで駆けつけてくれたことが何より嬉しかった。
「わー‼ ウッシー‼ ほんまに嬉しい‼」
「下りてくるの早くない?(笑) なんとなく旅の最初にSNSにアップしてた行程を見て、上高地か中房温泉かどっちかに下りてくるかなとは思ってたけど、今朝ストーリーズに上げてくれて助かった!」
5日間山に篭っていた汚い体で申し訳ないなと思いつつも、顔を合わせるなりハグをしたぼくたちは、周囲に鳴り響いている雨音に負けじと会話を弾ませた。自ら決めた歩き旅だし、歩きにこだわりたい気持ちもないとは言えないが、こんな嬉しいサプライズに乗っからない手はない。それにこんなイレギュラーも「旅っぽいやん」とポジティブに考えたぼくは、とりあえずリョウスケさんの到着を待つことにした。
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駆けつけてくれたウッシー。この晩は自宅でお世話になり、旅の思い出に彩りを添えてくれた。
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18時半頃に全身を濡らして登山口に現れたリョウスケさん。数日間行動を共にしたバディは松本でお別れすることになる。
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日本海を出発し、5日後に松本へ到着した。
【後編に続く】