昨年まで『コンチネンタル・ディバイド・トレイル放浪記』を連載してくれたトレイルネーム”Sketch”ことイラストレーターの河戸良佑さんが山と道JOURNALSに帰ってきました!
今回のテーマは、アメリカ東部のアパラチアン山脈沿いに3500kmに渡って伸びるアパラチアン・トレイル(AT)。コンチネンタル・ディバイド・トレイル(CDT)、パシフィック・クレスト・トレイル(PCT)と並び「トリプルクラウン」と呼ばれるアメリカ3大ロングトレイルのひとつで、これまでにPCTとCDTを歩いてきたSketchにとっては最後の1本となります。
5ヵ月に及んだその長大な旅の模様を、これからふたたび連載で綴っていってもらうのですが、『CDT放浪記』を読んでくれた方ならご存知の通り、今回も「トリプル・クラウンを制覇するんだ!」的な気負いはゼロ。いつも通りよく言えば自然体、というかいつでもノープランなSketchワールド全開で、彼の覗いたアメリカのロングトレイルのリアルを活写していきます。
さて、第1回目となる今回では、さっそくアパラチアン・トレイル名物の雨の洗礼を受けるSketch。ずぶ濡れでホステルにたどり着くと、これまでの2本のトレイルとは少し違う状況に自分が置かれていることに気がつきます。
大切なことは、いかに思い通りに遊べるか
朝から続く雨がジョージア州の森をしっとりと濡らしていた。木々の足元を縫うように伸びるこのアパラチアン・トレイルも例外ではない。
雨と汗でずぶ濡れの僕がブラッド・マウンテン・シェルターに泥だらけのシューズで足を踏み入れたのは、2019年4月14日の13時13分のことだった。このシェルターはアパラチアン・トレイルに点在する山小屋のひとつで、アパラチアン・トレイルの始点であるジョージア州のストリンガー・マウンテンから28.9マイル(約47km)進んだところに位置している。僕がアパラチアン・トレイルを歩き始めて3日が過ぎていた。
霧に包まれたブラッド・マウンテン・シェルター
Appalachian Trail
アメリカ東部のアパラチアン山脈に沿ってジョージア州からメイン州まで14州をまたいで伸びる約3,500kmの超ロングトレイル。開拓時代の旧跡も多く巡るルートはアメリカのルーツに触れる旅としての側面もあり、毎年数千人が踏破を試みる。
ブラッド・マウンテンはアパラチアン・トレイルのジョージア州セクションにおいて最も標高が高いとされているが、その高度はなんと4442フィート(1353m)しかない。コンクリートの薄暗いシェルターに入る。建物の窓枠にはガラスがはめられておらず、雨が吹き込んでいる為、内部は浸水していて快適な場所とは言い難いが、アパラチアン・トレイルのシェルターは木造の小屋が一般的なので、これでもかなりしっかりした部類だ。
床に落ちる小石を蹴りながら内部へ進み、水分を含み重くなったバックパックを下ろす。鈍く気持ち悪い音がした。テントのグランドシート用のタイベックを敷いてその上に座り、泥だらけのシューズ、そして肌に張り付いた靴下を力一杯引っ張って剥ぎ取る。
レインジャケットからダウンジャケットに着替えてひと息つく。4月のジョージア州は日本の春より幾分寒い。食料袋からラーメンを取り出し、アルミクッカーで湯を沸かす。今日はまだ昼飯を食べていないので空腹だ。湯が沸くのを待ちながら、石造りの壁にぽっかりと空いたガラスのない窓から外の様子をうかがう。深い霧に覆われていて、冷たい雨が強い風に吹かれて舞っている。
雨で冷たくなったシューズとソックス。
雨が筒抜けの窓から吹き込む。
「これが噂に聞くアパラチアン・トレイルの天気ってやつか。」
僕がアパラチアン・トレイルに抱くイメージは、窓の外の景色そのものだ。常にジメジメと高湿で雨が多い。その為、ハイカーは常に濡れていて、全身から生乾きの雑巾のような悪臭を発している。
ヒップバッグからiPhoneを取り出して、地図アプリのGuthookを起動させる。今回のトレイルでは紙の地図もガイドブックも携帯してなかった。アパラチアン・トレイルはアメリカの3大トレイルの中で最も難易度が低いとされている。だから、単純な地図アプリだけで事足りると思ったのだ。
僕は今回のハイキングに対して、ほとんど準備というものをしてこなかった。家にあるハイキング道具を適当にバックパックに放り込んで、日本から直前に購入した格安航空機を乗り継ぎ、アトランタで友達にピックアップしてもらいアパラチアン・トレイルまで移動して、その後は地図アプリが示す方向へとりあえず進んでいた。
出発当日の朝にアトランタ友人宅で撮影。洗練されたギアリストとはほど遠い。
正直なところ、今回で3回目になるアメリカのロング・ディスタンス・ハイキングにおいて、僕はトレイル全体の細かい情報をさほど重要視していなかった。要は最終的にゴール地点のカタディンにたどり着けばよい。それには、毎日歩けるだけ歩くしかない。アパラチアン・トレイルをスルーハイク(全行程をワンシーズンで踏破すること)に関しては何も問題はなく、大切なのはその過程でいかに思い通りに遊べるかだった。
画面に表示された地図を見る。現在の位置から北へスワイプしていくと、少し先に“Neels Gap, Mountain Crossings”と表示されている。なんと、早くも3日目にして最初の補給ポイントが目前のところまで進んでいる。これまで経験したトレイルではだいたい5日ほどのハイキングの後に街で補給する感覚だったので、今回はかなり補給区間の距離が短い。
湯が沸く音がしたので急いでバーナーの火を止め、ラーメンを少し砕いてそこへ投入する。湯の中に沈むラーメンと同様に僕の気持ちもゆらゆらと重く沈む。その理由は僕がアメリカのラーメンの味に心底飽きているからだ。過去のハイキングで200日以上も延々と食べ続けた結果、ついに食べることが苦痛になっていた。」
食事の改善が今回のハイキングの課題でもあったが、まだ歩き出して間もなかったため、習慣でいつもと同じものを無意識に購入してしまっていた。僕はチタン製のフォーク付きのスプーンで麺を無感情にすすり、添加物の味しかしないスープを飲み干すと、最後には胃に暖かさだけが灯った。今はそれだけの幸せで満足するしかない。
ヨセミテ国立公園で食べたラーメン。かつては1日2食という日も少なくなかった。
このとき初めて使用したハイキング用の軽量傘。まだ良し悪しは分かっていない。
濡れた体でじっとしていてもただ体温が奪われるだけなので、移動するために手早く荷物をまとめる。外を見ると依然として雨は降り続いていて、僕はこれを機にまだ一度も使ったことがない傘を実験的に使ってみようと思った。ロング・ディスタンス・ハイキングにおいて軽量な傘は特に珍しくないアイテムだが、僕は一度も使ったことがなかった。
多くのハイカーは砂漠地帯で日傘として使用するが、今回僕は雨傘として持ってきていたので、現在の状況はちょうど良い使用機会だ。もしこの程度のコンディションで使えないのであったら、次の街で友人宅にでも送ってしまった方がいいだろう。
気の早いトリプルクラウン祝い
ニールズ・ギャップの駐車場は霧に包まれていた。
ブラッド・マウンテン山頂からニールズ・ギャップまでの4マイルの下り坂は状態が良く、傘も十分に雨を防ぎ快適なハイキングだった。想定より早く到着したニールズ・ギャップは深い霧に覆われいて、視界が悪い駐車場をゆっくりと進むと、突如、霧の中からうねうねとした枝を四方に伸ばした大木が現れた。霧から生み出されたバケモノのように不気味なその姿をよく見ると、枝からはおびただしい数のシューズがぶら下がっている。これは一体何を意味するのだろうか? ただ趣味の悪いオブジェにしか見えない。
この地点でATを諦めたハイカーたちがシューズをこの木にかける習慣があると後に知った。
ニールズ・ギャップには土産店があり、そこで補給できるだけでなくアウトドアショップ、ハイカー用のホステルも併設している。時刻はまだ15時ごろ。天候もそこまで悪くはないので、ここで1泊するかは少し悩みどころであった。とりあえず暖かいコーヒーが飲みたかったので、僕は土産店へ向かった。
土産店はとても綺麗な古い石造りの建物で歴史を感じさせる。そして、それに見合った緑色に塗られた木製の扉が取り付けられていた。僕がそっとその扉を押すと、ギィィと歴史を感じる音が鳴った。
中央のカウンターに長い髭をたくわえた初老の男性が静かに座ってこちらを見ていた。食料品棚にはハイカーが必要とするフリーズドライ食品、エナジーバーからチョコバーまで豊富な品揃えがあり、カウンター裏にあるアウトドア用品コーナーを覗くと、有名どころのウルトラライトバックパック、さらには日本のモンベルの製品まである。ただの峠の土産屋だと思っていたが、ちょっとした町のアウトドアショップより充実している。ここが特別なのか、それともアパラチアン・トレイルはどこの店もこれくらい充実しているのだろうか。そんなことを考えながら、コーヒー用の紙コップを取り、ポットから並々とコーヒーを注いでレジカウンターへ持っていった。
ニールズ・ギャップの歴史を感じさせる建物。
充実した品揃えの店内。
「調子はどうだい? 雨は大丈夫だったか?」
白い髭をたくわえた初老の男性は微笑む。
「問題ないですよ。このコーヒーをください。」
そう言って彼にクレジットカードを渡す。
「それで君はホステルに泊まらないのかい?」
「えっと、そうですね。まだ暗くなってないですし、ちょっと考え中なんです。」
僕の中では資金を節約したい気持ちが優ってきていた。
「それは残念だな。」
「いったいどういうことですか?」
彼は笑みを浮かべた。
「君はホテル代がフリーでも泊まらないのかい?」
ホテル代が無料とは一体どういうことなのだろうか? 聞き間違えに違いない。
「すみません、今なんと言いましたか?」
「だから、無料なのに泊まらないのかい? と言ったんだよ。」
聞き間違えではないようだ。しかし意味が分からなかった。
「君は日本人だろ?」
「そうです。」
「トリプル・クラウナーだろ?」
トリプル・クラウナーとはアメリカの3大トレイルのアパラチアン・トレイル(AT)、パシフィック・クレスト・トレイル(PCT)、コンチネンタル・ディバイド・トレイル(CDT)を踏破したハイカーのことを指す。
「今、アパラチアン・トレイルを歩いている途中なので、トリプル・クラウナーではないですね。」
「いやいや、細かいことは言いなさんなって。」
「は、はぁ。」
「君はスケッチだろ? 今朝、リッキーが君のホテル代を払ったんだよ。」
はて、リッキーとは誰だっただろうか? 少ししてから思い出した。
その前日に通過したWoody Gapの標識。
リッキーと出会ったのは、昨日のことだ。
昨日の夕方ごろに、僕はWoody Gapというトレイルとコンクリートの舗装路が交差する箇所に辿り着いた。道路を渡った先で数人が焚き火を囲んで談笑しており、僕はこの光景を見てすぐに「これはトレイル・マジックだ」と察した。
トレイル・マジックとはロング・ディスタンス・ハイカーをサポートする行為のひとつで、それは時に路上にそっと置かれたクーラーボックスに入ったコーラや果物であったり、または大掛かりなBBQだったりする。
この光景を見て、すぐにトレイルマジックだと気がつく。
僕はあたかも何にも気がついていない様子を装って「こんにちは。調子はどうですか?」と声をかけると、「いい感じさ。君はハイカーだろ? 腹は減ってるか? 今ホットドッグを焼いてるから、そこのソーダでも飲んで待っててくれよ」と30代の男性が返した。
「ありがとう! 僕はスケッチ。ATをスルーハイクしてるんだ。」
「よろしく。よく来たね! 俺はリッキーだ。よろしくな。」
話を聞くとリッキーは週末を利用して家族とここでハイカーを迎えてBBQを振舞っているらしい。なぜそんなことをするのか? そんなことを質問するのは野暮だ。ここはスルーハイカーの礼儀に従って、すぐにソーダを確保すべくクーラーボックスに向かおうとした。
その時、リッキーが僕を呼び止めた。その顔は少し興奮しているようだ。
「スケッチ、もしかして君はトリプル・クラウナーなのか?」
僕は過去に歩いたPCTとCDTのワッペンをバックパックに縫い付けていた。なるほど、彼はそれを目にしたに違いない。
「ATをまだ2日しか歩いてないから、トリプル・クラウナーと呼ぶにはまだ早すぎるよ」僕は笑う。
「凄すぎる! 本当に尊敬するよ。そんなハイカーがここに何人いるだろう!」
彼は本当に驚いている様子だった。
2017年に歩いたCDT。旅の模様は山と道JOURNALSでの連載『コンチネンタルディバイドトレイル放浪記』にまとまっている。
僕はとても不思議な気持ちになった。2017年に歩いたCDTは3大トレイルで最も難易度が高いため、ほぼ全てのハイカーが何かしらのビッグトレイルを踏破していた。しかし逆にいちばん難易度が低いこのアパラチアン・トレイルの多くのハイカー達はそのようなトレイルはこれが初めてなのだ。僕はそのことをあまり意識していなかったが、初めて自分が少し他のハイカーたちと違った立ち位置にいるかもしれないということに初めて気づかされた。
その日はリッキーと家族にビールをご馳走になり、日が暮れるまで飲んだので、トレイルには戻らずにその場にテントを設営して眠り、今朝彼らと別れた。リッキーは僕と別れた後にニールズギャップに立ち寄り、気の早いトリプル・クラウン祝いとして僕に暖かいベッドをプレゼントしてくれたという訳だ。
焚き火をしながらビールを飲み、そして日が暮れた。
あまりの驚きに僕はただ呆けて立ちすくしていた。まだハイキングを開始して3日しかたっていないのに、早くもこんなに大きなサプライズを受け取ってしまった。これがアパラチアン・トレイルでは、よくあることなのだろうか。最初は嬉しさで高揚していたが、次第に他に本当に困っているハイカーの幸運を僕が奪ってしまってはいないであろうかと、少し不安になった。
「外に出て階段を降りた先の別棟がホステルになってる。ベッドは空いてるところを適当に使ってくれ。」
彼はそう言うと真っ白な柔らかいタオルを手渡した。僕はそれを脇に抱え、コーヒーをすすりながら扉を開けて外へ出て、石造りの階段を降りる。こじんまりとした広場があり、その先のホステルの扉をそっと開けると、入ってすぐが広い共有スペースになっていて10人程のハイカーがすでにくつろいでいた。僕は小さく手をあげて挨拶すると、数人がこちらを見た。
ホステルの入り口のスペースにたむろするハイカーたち。
「全身びしょ濡れね! 雨がひどかったでしょう?」
扉のすぐ横にいたブロンドヘアーの女性ハイカーが立ち上がって僕に話しかけてきた。
「いや、そうでも無かったよ。まあ、全然余裕だったよ。」
そう言うと、部屋にいた一同が一斉に笑った。僕には何故みんなが笑ったのか呆気にとられていた。
「何か変なこと言ったかな?」
「だって、あなたびしょ濡れよ。外は嵐じゃない! 強がらないで!」
僕は言葉を失って黙っていた。嵐だって? ただの雨じゃないか。
「もしかして、マジなの?」
僕の様子を見て彼女は少し困惑していたようだ。
「ごめん、マジで言ったんだよ。」
皆が沈黙し、部屋には誰かが見ているVHS版のパイレーツ・オブ・カリビアンのザラザラとした音声だけが流れていた。
僕は果たしてアパラチアン・トレイルでみんなと楽しくやっていけるのだろうかと、不安を感じながら空いているベッドを探すために奥へ移動した。
この日の夕飯は去年ATをスルーハイクしたハイカーによるBBQトレイルマジックだった。
バーガーを待つハイカーたち、まだみんな歩き始めたばかりなので小綺麗。
【#2に続く】