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HIKING AS LIBERAL ARTS

#2 西村佳哲:音を「きく」こと、話を「きく」こと(後編)

人は話すことを通じて、何をしているんだろう? 「意味」よりも「感じ」に意識を向けて話をきくこと
取材:豊嶋秀樹
構成/文:渡邊卓郎
編集/写真:三田正明
2025.01.10
HIKING AS LIBERAL ARTS

#2 西村佳哲:音を「きく」こと、話を「きく」こと(後編)

人は話すことを通じて、何をしているんだろう? 「意味」よりも「感じ」に意識を向けて話をきくこと
取材:豊嶋秀樹
構成/文:渡邊卓郎
編集/写真:三田正明
2025.01.10

山と道HLCディレクターの豊嶋秀樹をホストに、身体行為としてのハイキングをリベラルアーツ(固定概念や常識から解放され、自らの価値基準で自由に行動できるようになるための学問)として捉え、同じく身体行為である「見る」ことや「聞く」こと、「食べる」ことなどを手掛かりに、ハイキングのその先にある価値と可能性を探っていく連載『HIKING AS LIBERAL ARTS』。

「働き方研究家」の肩書きを持ち、多くの働く人にインタビューをした著作を持つ西村佳哲さんに、今、世界に溢れている音をじっくりと「きく」ことの本質を語っていただいた前編に続き、後編ではいよいよ西村さんの本分ともいえる、人の話を「きく」こととは、一体どんなことなのかに迫っていく。

世界に満ちる様々な音や人々の話に、あらためてじっくりと耳を傾けてみよう。

【連載を読む】

人間性回復運動とバックパッキング

——前編では自然の音に耳を澄ますという意味での「きく」についてお話を伺ってきたのですが、後編では人の話を聞くという意味としての「きく」ことについてお聞きしたいと思います。前編でお話しされていたように、西村さんが人の話を聞くという意味としての「きく」について考える時に、臨床心理学者であるカール・ロジャーズの存在が大きな影響を及ぼしているということでしょうか。

ロジャーズは1960年代に傾聴の「中核三条件」を社会に提示しました。彼は児童相談所で働きながら、さまざまな親子の相談の対話録をオープンリールのデッキで2,000件ぐらい録音して、それを逐語録におこしたんです。すると、聞き手がある3つの条件を備えていると、悩みや問題を抱えている本人が、話ながら、自分が進む道筋を自分で発見してゆくことがくり返し起きていることに気付くんですね。それが、「共感」と「肯定」と「自己一致」です。相手に対する共感的な理解と、無条件の肯定感覚。そして聞き手自身に、いま感じていることと、とっている言動の一致感がある。その条件が備わっている人の前で話す時に、本人の意志と無関係に発動する、内発的な成長過程があることに気付いたんです。その後、その3条件は仮説であったにも関わらず、すごく求心力があったものだから、それを前提条件のように捉える人が多くなった。カウンセラー育成の現場でも、共感をたっぷり体験する前に、条件から教義的に教えるので、話を十分にきいていなくても技術的に共感や肯定を始めてしまうような、奇妙なきき方が増えている気がします。

——カール・ロジャーズは60年代のアメリカで活躍した人ですよね。60年代といえば、バックパッキングのような長く山にいようみたいな流れが生まれた頃ですし、サーファーやクライマー、そして当時のヒッピーたちの中に自然回帰をしていくような一派もいただろうし、新しいボディ・アンド・マインドの世界みたいなものを推し進めていた人たちも多くいたと思うんですけど、それらがここにきて、2020年代に人間性回復や自然回帰の動きに再接続されているんじゃないかなと感じています。

60年代の人間性回復運動は、ヒッピームーブメントと連続している。つまり、ベトナム戦争を背景に進んだことなんですよね。人間性回復運動は大きくふたつの現象として現れたように私は思います。ひとつは「ビーイン」(*1)というムーブメントがあって、人がたくさん集まって人生や社会のあり方を確認し合う動きがありました。

「ビーイン」は「集まることで互いを力づけよう」というものなんですけど、もうひとつは、自分のための荷物を背負って、ひとりで長い日数を山の中に入っていくという旅の仕方が出てきたのがちょうど同じ頃だと思うんですよね。つまり、たくさんの人と集まって多くの人と繋がろうみたいな風潮のもう一方で起こっていることは、自然の中にひとりで入って、世界と繋がり、自分と繋がるっていうことを、ウィルダネスの中をソロで歩く時間の中でやっていたんですよね。この動きはとても現代的だなと思います。

——それこそ正にバックパッカーやハイカーが現在に至るまでやっていることですね。

(*1)ビーイン(ヒューマン・ビーイン)とは、1967年にサンフランシスコで始まった60年代のカウンター・カルチャーを代表するイベントで、社会における人間性回復を求める人々の集会。このイベントがきっかけとなりヒッピーの運動、思想、哲学が全米に広がるムーブメントに発展した。

取材は西村さんの行きつけのパン屋さんルヴァン富ヶ谷店で行われた。

人の話を「きく」ワークショップ

——以前、数々のご自身の活動の中で、インタビューのワークショップがとてもしっくりくるというようなことをおっしゃっていたんですけど、西村さんが主宰しているインタビューのワークショップについて教えてください。

私がワークショップでやっていることは、人の話を「きく」ってどういうことなんだろう? そして、人は「話す」ことを通じて、何をしているんだろう? ということを再確認していく作業ですかね。自分のきき方をもう1回見直したいっていう人が集まるから、どうしても最初は、私がやってみせるきき方と自分のそれを比べてしまう。自分がきけているか・きけていないかを意識しすぎて、その時点で聞いていないんです。本人のCPUというか演算能力を、相手でなく自分に割り振っているわけだから。きいていると起こるのは、「話せる」ということなんです。「話せた」と思うときと、「話せなかった」と思うときの間に一体どんな違いがあるのか。その解像度を高めてゆくのが、インタビューのワークショップでやっていることだと思います。人の話を知的に正確に理解することが、話をちゃんと聞くことだと捉えている人が多いけど、それって歌でいうと、歌詞だけを読んでいるような感じだと思います。実際には、今、私が話している時もそうだけど、話しているというより「歌って」いるんです。抑揚があるし、調子があるし、メリハリがあって、体も一緒に動いている。

——確かに話をしている時は、発される言葉だけではなく、もっといろんなものが表現されていますよね。

「話しぶり」ですよね。「ぶり」が表現しているものの方がむしろ大きくて、それはすごく身体的なんです。身体って本人が考えているよりずっと早いんですよね。人間は脳で考えて身体を動かしているわけじゃなくて、身体の方が常に早く動き始めていて、脳がそのあとを追いかけて意味づけしているというのは認知科学が報告してきたことです。その身体が表現しているものを感受してゆくと、聞いている話の質が変わってゆくんですよね。何日かかけてそれを受信できるようにしてゆくワークショップです。

西村さんが主催するインタビューのワークショップの模様。(写真提供:西村佳哲)

「非構成的エンカウンターグループ」とは?

——西村さんがやっているもうひとつのワークショップに「非構成的エンカウンターグループ」があると思うのですが、それははどういうものなのでしょう?

非構成的エンカウンターグループは、カール・ロジャーズが始めたグループセッションです。決まっているのは食事の時間だけ。集まった人たちと輪になって座り、話したくなった人が話すだけのワークショップです。私が最初に体験した時の話をするとちょっと様子が掴めると思うんですけど、その時は自分が体験してみたくてファシリテーションはある人にお願いして、各地から13人が集まったんです。皆さんはじめましての人たちでした。ファシリテーターの人が「これから非構成的エンカウンターグループを始めます」と言った後に、シーンとなって皆沈黙。3分後ぐらいにひとりが「これ、始まってるんですか?」と言葉を発したんですが、ファシリテーターの人は何も答えない。何も答えないということは始まっているんだな…という感じで、またシーンとして。その後も、数分に1回誰かが話し出すんですけど、全然続かない。その時は3泊4日だったんですけど、何のお題もないし、ファシリテーターは誘導も整理もしない。全員でただその場で起きることを扱ってゆく。すると、ちゃんと満ち足りてゆくんですね。テーマや問いやアクティビティがあらかじめ用意されていなくても、起こることが起こるべくして起きて、メンバーは互いに充実する。話だけ聞いてもよくわからないと思いますが、グループプロセスを丁寧に扱うとこんなことになって、場が崩壊も失速もせず成立するんだ! というのは衝撃的な体験でした。

——非構成的エンカウンターグループは話すことが前提の集まりなんですか?

話さなくてもいいんです。これまで15、6回体験しているんですけど、2日半ぐらい完全に沈黙だったこともありますね。こっちが慌てて何か新しい話題を投入しようとしなくても、ちゃんと起こることが起こるということを知ってしまった。人が集う場に信頼感があるので、会議でも、誰かの話をきくときも、結構待てるようになった。

——非構成的エンカウンターグループではどんなことを得られるのでしょうか?

体験は個々のものだから一概には言えないけど、自分について言えば、人間を見る目が変わった。たとえばワークショップで集まったとき、「あの人とは気が合いそうだな」とか「あの人はあまり自分と関係ないな」みたいな軽いラベリングを自分はしがちだったけど、数日間一緒に時間を過ごしてゆく中で、最初の印象とまったく違って見えるということが何度も起きて。これまで自分は何を見ていたんだろうと思いました。非構成的エンカウンターグループを始めた頃、しばらく海外旅行に行かなくなったんです。遠くに行かなくても、今ここにあるものでもう十分じゃないかという気持ちになった。それぐらい、ただ話を聞いたっていうのとは違う体験でした。

——実際に体験をしてはいないのでイメージでしかないのですが、不思議な体験ですね。日常生活にはなかなか訪れない時間ですよね。

ちょっとした時間の中にも実はあるんですよ。例えば誰かの話を聞いていて、つい一緒に感じているような言葉を漏らすときがありますよね。「それ痛いなー」とか「もうたまんないね!」とか。そういう言葉が出てくるときは、もう半分その人の話になっているというか、きいている人も一緒に感じているわけですよね。それが共感なんです。その時にふたりの間に生まれている感覚は、非構成的エンカウンターグループの中で体験しているものとすごく似ています。

——日常生活の中でそれを意識することはないですよね。前回お話を聞いた「ディープ・ルッキング」を提唱しているロジャー・マクドナルドさんも「忍耐強く見る」ことの重要性について教えてくれました。

沈黙耐性がすごく低くなっていますよね。例えば、テレビやラジオの沈黙は4秒で放送事故になりますし、普通の人も本当に隙間が生じないように生きているから、普通にお茶を飲んでいる時ですらそんな感じになっていますよね。間がなくてペースが早い。沈黙に対する心の許容度というものは、ちょっと遡ればいろんな文化の中にあったはずなんです。日本においても、たとえば、宮本常一の『忘れられた日本人』(*2)の中にも、村の寄り合いの情景が描かれているけど、黙っている時間は長そうですよね。本当に必要なものは沈黙の中から生まれてくるのかもしれません。

(*2)『忘れられた日本人』(宮本常一著/岩波文庫刊)日本全国をくまなく歩き、各地の民間伝承を克明に聞き取り調査し続けた宮本常一(1907-1981年)による、土地の文化を築き、支えてきた古老たちの話をまとめた1冊。

非構成的エンカウンターグループの休憩時の模様(写真提供:西村佳哲)

——ヴィパッサナー瞑想(*3)のコースに行ったことがあって、そこではアイコンタクトや会話もなしで10日間過ごすんですけど、一緒の部屋で瞑想している人と、だんだんこの人とは気が合いそうとかが気配でわかってくるんです。で、最後の日にちょっと喋っていいよっていう時間があるんですけど、話してみるとやっぱ気が合うっていうことがありました。

それと同じだと思います。さっき沈黙の話をしましたが、また別の切り口で言うと、今は言語化能力の高い人が幅を利かせている社会だし、強い言葉を喋る人が力を持つ社会になっていますよね。「意味」がエラそうにしている。それよりも、「なんかこの感じがいいな」という、その「感じ」に意識を向けるのが、自分がしていることだと思います。人の話をきいている時に、「感じ」を優位にしたきき方をしているというか。

——耳だけできいているわけじゃないということですね。

その人の語り口調とか語尾ですよね。日本語って、本人が喋りながら感じていって、最後にそのことについての態度を決めるということができる言語で。たとえば「×××だ」とか「×××かも」とか「×××みたいな?」とか。語尾で、そのことにいての最新情報を表現する。つまり本人が、感じたり考えながら喋りやすい言語だと思います。それをキャッチして反応していくと、その人の、今この瞬間に反応し続けることになるので、その人との関係も話の質も変わってくるんです。そんなことをインタビューのワークショップでもやっているし、非構成的エンカウンターグループでも私がファシリテーターをしている時は、そういうことを意識しています。

——「非構成的エンカウンターハイキング」もできそうですね。知らない人同士で、ただ歩いているだけ、みたいな。

ハイキングってすでにそういうことなんだと思いますね。

(*3)「ものごとをありのままに見る」という意味を持つヴィパッサナー瞑想はインドの最も古い瞑想法のひとつで、「今、この瞬間のありのままの現実」の変化を観察し続ける瞑想法。

「今この瞬間」に反応し続けながら話すふたり。実は西村さんと豊嶋は旧知の間柄。

非構成的エンカウンターグループはハイキングと似ている⁉︎

——ハイキングにこじつけたいわけじゃないですけど、やはり似ているなと思っているんです。なぜハイキングに行くのかを考える時に、今回話を聞いていて、同じところに根っこがあるなと感じました。登山の場合は頂上を目指すという感覚があるのでちょっと違うのですが、ハイキングは「彷徨う」とか「自然に没入する」とか、歩くこと自体が目的化しているが面白いところなんですけど、非構成的エンカウンターグループにはそういうこともすごく感じられます。

漢字で書く「逍遥(※気のむくままにあちこちと遊び歩くこと、世間の俗事を離れて楽しむこと、そぞろ歩き、散歩の意)」という言葉がありますよね。『ゲド戦記』(*4)で主人公のゲドに、魔法使いとしてのあり方を伝えてゆくひとりの長(おさ)がいるんですけど、その人は森の中をずっと逍遥しているんです。目的もなく、ただ歩き続けているんですけど、ハイキングは逍遥に近い気がしますね。歩いていること自体を体験している。

——もちろん人にもよりますが、例えば八ヶ岳とか北アルプス、または海外の山に行くっていうのは日常生活の中において特別なイベントごとだと思うんです。それをハレとケの概念になぞらえると、祭や儀式のように日常からは離れたハレの日的な特別感を感じられる行為にあたります。一方で、思い立ったらすぐに行ける、朝の散歩で登る裏山ハイキングのようなものは、ケの日的な、ハイキングなんだと思います。そこには毎日歩いている本人しかわからないようなグッとくるようなことがあったりします。そういうケの日的な日常の行為は、習慣化してしまっているがゆえ意識しづらいものでもあると思います。そこに意識を向けてケの日の喜びを感じるには、ちょっとした集中力とか、そこにちゃんと身を投じることとか、日常を引き受ける覚悟とか、その時間を大切にするとか、効率やスピードじゃないこととか、どんどんと流れ去ってしまうケの感触を感じられるようにすることが必要で、それらを自分の中で用意しない限りは手に入らないというか、受け取ることもできないんでしょうね。ハイキングにも同じようなことが言えるんじゃないかと思っています。

話を聞いていると、本当に非構成的エンカウンターグループとハイキングが重なる気がしてきました。例えば「ライター養成講座」みたいなところでは「質問は100個考えていきましょう」と教えたりする。インタビューの前に具体的な質問を考えてみるのは悪いことじゃないけど、それを抱えていくのは良くないと私は思うんです。事前に用意した質問を抱えているとそれを使わなきゃと思ってしまうし、相手のことより、まだ使っていない質問に意識が向いて「じゃあ次の質問です」と使い始めると、インタビューが1問1答になってしまってつまらなくなる。いざインタビューが始まったら、その場にある手がかりで全部やるほうが必ず面白くなる。これってULハイキングの「持っていかない」態度と重なるんじゃないかな。ハイキングと非構成的エンカウンターグループが近い、ということを今日は気づかせてもらいました。

(*4)『ゲド戦記』(アーシュラ・K・ル=グウィン著/岩波書店刊)アメリカの小説家、SF作家のアーシュラ・K・ル=グウィン(1929-2018年)によって書かれ、1968年から2001年にかけて出版されたファンタジー小説。

西村さんの話を聞いて(きいて):豊嶋秀樹

西村佳哲さんとはもうかれこれ20年以上の付き合いになる。その間に度々トークイベントやワークショップ、インタビューなどの仕事(もしくは仕事のようなこと)を通じて、お互いの話をきいたり、一緒に話をする機会があった。

僕自身、誰かと対談したり、インタビューされる側になることもたまにあるが、その相手が西村さんとなると、他とは違う時間になる感じがいつもあった。

西村さんを前に、僕は普段より多くの話をしている気がするし、自分では気づいていなかった自分のことについて語っていたりして、我に帰ることもしばしばあった。「僕はこんな風に思っていたんだ」と、西村さんに導かれ、それまで知らなかった自分が出てくるのである。

同時に、僕は、おそらく自分の考えを相手に理解してもらおうという気持ちから、ついつい語りすぎてしまうことがある。そのことをいちばんよく知っていて、最もその被害にあっているのは僕の妻だろう。議論や口論というよりも一方的に僕が話を続け、ある時点で、ああ、またやってしまったと反省する。

前置きが長くなったが、そういうわけで、「きく」ことを西村さんに「きく」という今回のテーマは、僕の非常に個人的なところからスタートしたが、同時に公共性の高いトピックでもあると思う。

結果、西村さんに「きく」ことについての話を「きく」ことは、多くの示唆を与えてくれた。サウンドバムのプロジェクトは、自然で過ごすことの多い僕たちハイカーにとっては、新しい世界の捉え方を教えてくれたし、カール・ロジャースをはじめ、当時の人間性回復運動とバックパッキングの繋がりについてのくだりはハイカーであれば興奮せずにはいられない。

「たくさんの人と集まって多くの人と繋がろうみたいな風潮のもう一方で起こっていることは、自然の中にひとりで入って、世界と繋がり、自分と繋がるっていうことを、ウィルダネスの中をソロで歩く時間の中でやっていた」(本文より)

これはまさに、僕たちが山と道HLCで実践していることと大きく重なるように感じた。

前編で「自然界の音をきこうとすることは、自分のサイズが変わるような経験でもある」と、西村さんが言うように、僕も自分を拡張させて世界をバイブレーションとして体で受け取ってみようと思う。そして、僕にとってはまだ謎なところが多い非構成的エンカウンター・グループにも参加してみたい。

「きく」ことに意識を向けて、ハイキングの感度を一段階アップグレードして楽しんでいきたいと思う。

西村さん、どうもありがとうございました。